【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。愛媛県の松山教会の久保浩文です。今朝のお目覚めは、いかがでしょうか。
皆様は、朝一日の始めに、「さあ、今日も頑張ろう」と何か、飲物を口にされるでしょうか。朝の目覚めには、やはり一杯のコーヒー、紅茶、健康のことを考えてスムージー、という方もおられるでしょう。私の場合は、朝食の時はトーストに紅茶を、仕事始めの前には一杯のコーヒーを飲んで、机に向かうのが最近の習慣です。
昨今は、環境に配慮して、何処でも自由に持ち運べるマイボトルをお持ちの方も増えているようです。また、こだわって選んだお気に入りのマグカップで、一息つかれる方もおられるでしょう。私も、飲物の種類によって、カップを変えています。紅茶はマグカップ、コーヒーは縦長のコーヒーカップ、煎茶、緑茶には湯呑、という具合です。しかしどれも、ごく普通に売られている器です。
日本には、地域によって、特産品としての焼き物があります。私の住んでいる愛媛県では、砥部焼が有名です。砥部焼は、かつて江戸時代に、伊予大洲藩が、藩の財政を立て直すために、砥石くずを使った磁器づくりを始めたことに端を発すると言われています。白磁に薄い藍色の手書きの図案があり、ひびや欠けが入りにくい特徴があるそうです。私は、香川県高松市の生まれですが、香川県と言えば、「讃岐うどん」が名物です。砥部焼は、讃岐うどんの器として用いられている事でも有名です。どっしりとした厚みがありながらも、さわやかな色合いの丼は、うどんにぴったりです。
器の常として、「割れる」ということがあります。私は、結婚前から約15年程愛用していた萩焼の湯飲み茶碗を、幼い娘にふとした拍子に割られてしまいました。それは、ほんの一瞬の出来事でした。使い込んで愛用していただけに、見事に真二つに割れた破片を見たときは、ショックでした。割れてしまった土の器は、捨てるほかありません。
私たち人間も、気を張り詰め、いつも何かに追われ、忙殺される日々を送っていると、突如、何かの出来事で、簡単に心が折れてしまうことがあります。人間関係がうまくゆかずに体調を崩したり、自分の置かれた厳しい現実と向き合う気力がどうしても出てこない、そんなこともあるのではないでしょうか。改めて、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)、という聖書の言葉を思い起こします。
人間は、いくら強い人でも、自分一人の力で生きているかのように見えても、所詮、弱く壊れやすい、脆い土の器にすぎません。使徒パウロは、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」と語ります(2コリント4:6-7)。この宝とは、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」、すなわち、キリストご自身です。
私たち人間は、弱く壊れやすい者ですが、その弱い人間を用いて、神は、救い主キリストの恵みの光を放つ器として下さるのです。主イエス・キリストを心から信じる者の心の内には、死から復活された主イエス・キリストが、聖霊において住んで下さいます。私たちは、脆く壊れやすいものであっても、このキリストという宝を納めている限り、神の栄光の器とされます。
主イエス・キリストを信じて歩むことは、時折、苦しみ哀しみを経験することもあります。しかし、主イエスご自身が、苦難の人生を歩まれて復活されたように、キリストに従う者も、たとえ様々な困難に遭遇しても、復活の恵みに与り、神の御前に立たせて頂くことが出来るのです。「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方にくれても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(2コリント4:8-9)、それが、土の器でありながら神の栄光の器とされたもの、イエス・キリストを信じる者に与えられる強さなのです。