キリストへの時間 2023年3月19日(日)放送  キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

高内信嗣(山田教会牧師)

高内信嗣(山田教会牧師)

メッセージ: それぞれの正しさ

【高知放送】
     

【南海放送】
     

 おはようございます。高知県の山田教会で牧師をしています高内信嗣です。よろしくお願いします。
 重松清という作家がいます。本日、ご紹介したいのが、「きみの町で」という小さな物語集です。

 フランスで刊行された『こども哲学』シリーズが、日本版として刊行されるにあたって、重松清が監修を務めることになりました。そして、日本語訳の『こども哲学』シリーズの各巻に、重松自身の筆による「おまけ話」が付録されることになりました。そのおまけ話がまとめられたものが、「きみの町で」という文庫本として、書店で販売されています。

 短編ごとに、「〇〇って、なに?」というテーマが設けられています。そして、そのテーマを踏まえたお話が書かれています。一番初めの物語は、「電車は走る」というタイトルですが、その物語のテーマは、「よいことわるいことって、なに?」というものでした。

 物語の中で、カズオ、タケシ、サユリと場面が切り替わっていきます。それぞれ、電車の中に乗っていました。そして、座っている席を、譲るか、譲らないかで、それぞれの心の声が記されています。カズオは、目の前におばあさんが二人いたため、席を譲ることを悩み、目を閉じて寝てしまいました。タケシは、自分にも座る権利があると確信して、目の前のおじいさんに席を譲りませんでした。サユリは、松葉杖をついたお姉さんに席を譲ったのにも関わらず、軽い会釈しかされなかったことにいらだちます。

 そして、この物語は最後に、このような言葉で結ばれています。「ぼくたちは、みんな、電車の中にいる。「世の中」という名前の電車に乗り合わせた乗客だ…「わたしの正しさ」は、乗っている人の数だけある。でも、それは必ずしもほかのひとの正しさとは一致しない…電車は走る。数え切れない「正しさ」は、すれ違ったりぶつかったりしながら、電車に揺られている。床に転がって誰かに踏みつぶされてしまった「正しさ」も、きっとそこにはあるだろう。あなたの「正しさ」はどこにある?そしてそれは誰の「正しさ」と衝突して、誰の「正しさ」と手を取り合っているのだろう。」

 なかなか興味深い、結びの場面です。それぞれの正しさがある。その正しさは、必ずしも一致しない。自分の正しさを振りかざすことがある。自分の正しさが踏みつぶされることもある。正しいとは何か。よいこと、わるいこと、とはなにか。なかなか考えさせられる物語です。

 さて、ここで一つの聖書の言葉に、目を向けたいと思います。ルカによる福音書23章33、34節です。「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』〕」

 教会が信じるイエス・キリストが、死刑に処せられる場面です。イエスは何も、死刑に処せられるようなことはしていませんでした。しかし、当時の権力者たちは、イエスを憎み、十字架につけました。その人々は、誰もが「自分は正しいことをしている」と思っていました。それぞれの「正しさ」と手を取り合いながら、イエス様を裁いたのです。それが、彼らの「正義」でした。しかし、それは、本当の「正しさ」と言えるのでしょうか。そのような中で、イエスは、祈りをささげました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 イエスは、祈りをささげて、彼らを裁かなったのです。本当の正しさとは、神の御心の中にある正しさのことです。イエス様は、神の御子でありますので、神の正しさを熟知していました。神の正しさを前にするならば、本来ならば、私たちは、立つことすらできません。裁かれても当然の存在です。しかし、イエスは彼らを裁きませんでした。逆に、彼らのために、赦しを祈ったのです。一人ひとりが赦されるということ。これがイエスの望みであり、イエスの正しさだったのです。

 私たちの世の中は、今も、数え切れない、それぞれの「正しさ」がすれ違ったり、ぶつかったりしています。そのような世の中だからこそ、主イエスの祈りの言葉に耳を傾けたいと思います。主の赦しに生きるならば、世に振り回されることのない確かな土台の中で、歩むことができるはずです。



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