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おはようございます。いかがお過ごしでしょうか。広島県東広島市西条中央にある東広島教会の牧師をしております、李哲敏(イチョルミン)と申します。どうぞよろしくお願いいたします。お近くに来られた時は、ぜひ、東広島教会にお立ち寄りください。
生物学的に、動物や人間は、五つの感覚、すなわち 視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚を通して、外部からのいろいろな刺激を感じ、把握します。
「クリスチャン」という言葉があります。イエス・キリストを神の子メシアとして信じ、彼の教えである聖書を学び、従う人のことを指す言葉で、今は、全世界で同じ意味で用いられている言葉です。日本では、「キリスト者」とも言います。聖書の中には、クリスチャンに関する定義や説明が多くあります。
今日の聖書箇所も、その一つです。コリントの信徒への手紙は、パウロという人が、コリントにある教会の人たちに書き送った手紙のことです。ここでパウロは、「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香り」(2コリント2:15)だ、と言っています。他の聖書の御言葉がそうであるように、この箇所の第一の受信者はコリント教会の会員たちですが、時間と場所という物理的次元にとどまらず、今、この御言葉を読むすべての人へのメッセージでもあります。ですので、今、イエス・キリストを神の子メシアとして信じ、彼の教えである聖書を学び従う人は皆、キリスト者ですので、その人もキリストの良い香りです。
イエス・キリストを信じるか、信じていないかを問わず、すべての人には、その人だけの香りがあると思います。これは、汗のにおいのこととか、足のにおいなどの体臭のことではありません。その人の人柄と言いましょうか、その人の言葉、顔つき、行動、生活などを通して伝わってくる人格、品格などのことです。
その香りがどんな香りをしているかは、自分では分からず、人が教えてくれるものです。自分のことをよく知っている人からの評価、評判、今日の言葉では、リアクションを通して、自分の香りがよい香りか、悪臭か、もしくは無臭かが分かります。皆さんからの香りは、どんなものでしょうか? 周りからの皆さんの香りに対する評価は、どういうものでしょうか?15節の前後の箇所によりますと、キリスト者から香るキリストの香りは、救いの道をたどる者、言い換えれば、信仰者も、そして、滅びの道をたどる者、すなわち、信仰のない人にも分かります。
もしこれを聞いておられるあなたが、クリスチャンであるなら、あなたからは、キリストの良い香りが出ていますか?たとえば、焼きたてのパンのにおい、おいしい料理のにおい、高価な香水は、人を幸せな気持ちにさせます。その香りは、人を呼び集めます。その香りを放つ本体も、好きになります。基礎的な常識の一つは、「中にあるものが外にでる」ということです。逆に、中にないものは出ませんし、出せません。
パウロがいう、私たちが出すべき香りとは、私たち自身の香りではありません。私の香りではなく、キリストの香りです。私たちからキリストの香りを出すためには、その香りの源であられるイエス・キリストが、私たちの中におれらなければなりません。私たちの中に、イエス・キリストの御言葉、神さまの愛、恵み、それに対する感謝と喜びがあるのなら、それらは、私たちの言葉、顔つき、行いなどを通して、キリストの香りとして外に出てきます。
小説家の三浦綾子さんは、著書『旧約聖書入門』でこのように語りました。「わたしは、昨日、台所で人参を切りながら思った。(人参はどこを切っても人参だなあ)と。が、自分の生活は、はたしてどこを切ってもクリスチャンであろうか。自分の生活のどの断面ででも、神をたたえ、神に従っているだろうか。」(三浦綾子「旧約聖書入門」)
彼女の言葉の通り、キリスト者は、自分の生活のどの断面からでも、キリストの香りを出すべきです。香るためにまず、その原料であるイエス・キリストを入れましょう。聖書の御言葉を目・耳をはじめ、すべての感覚器官を通して、心の中に入れましょう。生活のどの断面からも、イエス・キリストの良い香りを伝える人は、神の喜びです。