【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。そして、明けましておめでとうございます。今月のメッセージを担当させていただく、南与力町教会牧師の坂尾連太郎です。
あなたは、今年がどんな年になることを願っておられるでしょうか。多くの人は、年の初めに「幸せ」を願うのではないかと思います。
聖書は、人間の「幸い」について、多くのことを教えています。今朝は、イエス・キリストが、「山上の説教」の最初で語られた「幸い」についての御言葉に、耳を傾けたいと思います。マタイによる福音書5章3節、次のような言葉です。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
イエス様は、「心の貧しい人々は幸いだ、幸福だ」と宣言されました。しかし、普通、私たちが「幸せな人」をイメージする時、「心の貧しい人」が出てくることは、まずないと思います。そもそも、「心の貧しい人々」とは、一体どういう人々でしょうか。心が狭く、愛や思いやりが持てない人のことでしょうか。そうではありません。「心が貧しい」という言葉は、元のギリシャ語では、「霊において貧しい」という言葉が使われています。
「霊」というのは、人間存在の最も深い部分です。人間は、その「霊」において、神様との交わりを持つことができます。ですから、「霊において貧しい」とは、神との関係において貧しい、神の御前に貧しい者、という意味です。私たちは、むしろ、ある程度お金があり、自立して生活したい。人に頼らず、迷惑をかけずに生活したい。それが、幸せの前提のように考えます。しかし、イエス様は、「心の貧しい人」こそ幸いである、と言われたのです。それは一体、なぜなのでしょうか。
イエス様は、その理由として、「天の国はその人たちのものである」とおっしゃいました。「天の国」とは、「神の国」と同じ意味の言葉です。それは第一に、神の王としてのご支配、統治そのものを意味します。そこから、神が王として治める国、王国という意味も出てきます。「心の貧しい人々」とは、神の前に無一文であり、ただ、神からの恵みと憐れみを乞い求めるしかない人々です。しかし、そういう人々にこそ、天の国、神のご支配は与えられる。すでに今、天の国は、彼らのものとなっている。だから、彼らは幸いだ、幸福だ。イエス様は、そう告げられたのです。
私たちは、ともすると、自分を誇ろうとしてしまう愚かな者です。人と比べて自分を誇る。神の前にさえ自分を誇り、おごり高ぶる。それは、私たちの罪です。イエス・キリストは、そのような私たちの罪を背負って、十字架上で死んでくださいました。それは、私たちの罪を赦し、天の国を与えてくださるために他なりません。私たちは、自分が神の前に、いかに貧しい者かを知らなければなりません。そうでなければ、今日のイエス様の言葉を、自分にとっての「福音・良き知らせ」として、受け取ることはできません。
私たちは皆、罪人であり、神の前に何も誇ることはできない、貧しい者たちです。ただ神様に恵みを乞うことしかできません。しかし、そのような私たちに、神様は、天の国、ご自分のご支配を恵みによって与えてくださる。そのために、主イエス・キリストは来てくださいました。
心の貧しい人々には、今すでに、イエス・キリストを通して、神の恵みのご支配が与えられています。神の恵みと愛の中で、その御手の中で、私たちは守られています。これは本当に幸いなこと、幸せなことです。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」イエス様がもたらしてくださった、この福音を喜びながら、今年も歩んでいきましょう。