おはようございます。花見川キリスト教会の牧師、中山仰です。
神学生の時には、近隣の教会へ派遣されて説教をする訓練の機会があります。
仲間の一人がある教会で説教し始めた時に、一人の婦人が涙されたそうです。自分の説教がどのように会衆に伝わるかということについては、説教者には大きな関心があります。説教が終わるや否や、その婦人のところに近づいたところ、「先生、今日説教前に先生の選ばれた讃美歌は、亡き主人の愛唱歌で、それを思い出して涙がこみあげて来ました。」というものでした。ということで、笑い話になりました。
説教は、聖書の言葉を説教者が語るという光栄と責任を伴います。しかしながら、説教者自身の言葉で語らなければ通じません。当然、説教者の人格と信仰全体が映し出されてしまいます。特に、よく出てくる「神」とか「愛」などについて、自分の中に実感がなければ、単なる説明になってしまいます。
説教者が自分の言葉で神の言葉を語りますが、それを聞く会衆は、会衆自身の言語でこれを聞きます。説教は、説教者が意図するようには聞かれません。すばらしい聞き手は、説教について、説教者よりすぐれて聞くこともありますので、必ずしも、マイナスの面ばかりではありません。説教を聞かれた方の心の中に、その方の長年の聖書への親しみが、読み方につながります。神の愛とかキリストの恵みについて、積み重ねがあるからです。だからこそ、未熟な説教者であっても、神の言葉が真実となるのです。
聖書が語られる時は、神の言葉となるので、大いなる力となります。そこに聖霊なる神が働かれるからです。ここに、説教者の慰めと恵みがあります。