おはようございます。花見川キリスト教会牧師の中山仰です。
ヨハネによる福音書の冒頭には、「初めに言があった。」(ヨハネ1:1)という、創世記の冒頭の天地創造と重なる荘厳な言葉があります。
神の天地創造は、人間が間違いなく被造物として造られたことが明確になります。私たちは、自分こそ物事の初めであり、自らを主人とする傲慢さを持ち合わせています。しかし、神こそが唯一の創造者であることは、信じる者にとっては希望の光となります。創造者なる神が初めにおられたという事実は、どのような暗さの中にも救いがもたらされるからです。
ヨハネによる福音書が書かれた時代には、イスラエル民族は、巨大なローマ帝国の迫害下にありました。ユダヤ教は公認されていましたが、キリスト教は未公認でした。そのことが迫害をひどくしたようです。また、そのような迫害や戦いがなくても、人は死に直面したときには、暗闇の中に突き落とされる心境にならざるを得ません。
私の両親の死に際して、傍らで祈ることしかできなかった自分を思い出します。しかし、言葉は強いものです。たどたどしくても、祈りの言葉は、創造者に向かっていきます。「初めに言があった」と臨まれたお方は、その言葉どおりの力をもって、被造物である私たちを豊かに導いてくださいます。そのために、神の子が肉をとってこの地上に来られ、救いが実現しました。それゆえ、主イエス・キリストの言葉は、創造者の集中的な力の結集した言葉として、私たちに命をもたらしてくださいます。皆様も、聖書から救いの約束を聴き取ってみませんか。