おはようございます。花見川キリスト教会牧師の中山仰です。
聖書には、「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1)と書かれています。聖書を読み進めると、全ての創造の最後に人間が造られています。
もし創造の途中で、転変地異の状態の時に人間が造られていたら、間違いなく恐ろしさのあまり、気がおかしくなるのではないかと推測できます。何年か前ですが、長崎の雲仙普賢岳の噴火跡を見る機会がありました。それは恐ろしい様相を示していました。近くに住んでいて噴火を見た方は、どんな気持ちだったでしょうか。
壮大な創造の記述において強調されていることは、すべてにおいて人間中心である、ということです。聖書はどこまでも、神の創造された美しい調和の自然の中で、自分が生きている、生かされている喜びを知る目的で書かれています。信仰者ヨブは、「誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。」(ヨブ38:5-6)と創造者の業を賛美しています。
新約聖書のヨハネによる福音書の著者は、初めにクリスマスの物語を記す代わりに、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1:1-3)と始めています。新約聖書の創造物語と置き換えることができます。
この言(ことば)は、イエス・キリストのことです。初めから、私たちの救いのためにイエス・キリストがおられた、という壮大な救いの計画が、まさに重ね合わされています。