おはようございます。ご機嫌いかがでしょうか。新所沢教会の牧師、長田です。
今週は、教会の礼拝でする説教について、知っていただこうと思っています。
説教は、神様が私に語りかけ、私の赦しと救いを宣言してくださる場所であることを確かめて参りました。ところで、礼拝には、神様と私以外にも大事なものがあります。それは、その場所に私以外にも多くの人たちがいること、さらに、礼拝堂の外に広がる世界が存在していることです。
聖書の言葉、説教の言葉が、ただ私と神様の関係だけについて語るのであれば、私たちは、何もわざわざ教会に集まって礼拝をする必要はありません。私たちが聖書のお話を聞く時には必ず、目を開けば、一緒に聖書の話を聞く仲間たちがいますし、顔を上げれば、窓の外に世界とこの世の全てが広がっています。そして、私たちを愛して、私たちを赦してくださった神様は、私たちもまた、世界を愛し、他の人たちを赦すように促しているのです。
私たちに赦しを宣言し、その赦しを実現してくださる神様の言葉は、今度は、私たち自身の中で、私たちが赦す人になるように働いてくださいます。説教は、私たちの目を、人々に、そして世界に向けさせるのです。説教の力、神様の言葉の力に動かされることが、私たちの喜びなのです。
聖書を読みます。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブ1:22)