おはようございます。ご機嫌いかがでしょうか。新所沢教会の牧師、長田です。
今週は、教会の礼拝でする説教について、知っていただこうと思っています。
昨日は、礼拝の説教で、私たちは自分がいかに自己中心であるかを思い知らされて、反省して神様のところに戻るのだ、ということを確かめました。でも誰だって、「お前は間違っている。反省しなさい。悔い改めなさい。」と言われてばかりで、嬉しいはずがありません。間違っていることを指摘されて、謙遜な思いで反省したとしても、それで終わりでは喜べないのです。
もちろん神様は、私たちを反省させるだけの方ではありません。反省する姿勢をきちんと受け止めてくださいます。そして、ただ神様お一人だけが、反省する私たちを受け入れて、その駄目なところ、つまり、私たちの罪を赦してくださることができるお方です。神様は、聖書の中で、私たちを赦してくださることを約束し、実際に、その赦しの実現のために、イエス様の十字架の出来事を実現してくださっています。
礼拝の説教は、その神様の赦し、イエス様の十字架によって実現した救いが宣言される場所です。私たちは、礼拝の説教でいつも、その神様の救いの約束が実現したことを宣言されます。だからこそ、説教は私たちの喜びなのです。
聖書を読みます。「そして、イエスは女に、『あなたの罪は赦された』と言われた。」(ルカ7:48)