おはようございます。ご機嫌いかがでしょうか。新所沢教会の牧師、長田です。
今週は、礼拝でする説教について、知っていただこうと思っています。
昨日は、説教とはわかるようにお話する、と申しました。けれども、説教で語られる聖書は、なかなか分かるもの、納得できるものではありません。というのも、聖書は、神様が私たちに対して、自分中心ではなく、人と神様を大切にするように教えています。ところが、私たちは、皆多かれ少なかれ自分中心です。聖書が教えているように生きるのは、そもそも、人間自身の力では不可能なのです。
ですから、私たちは、礼拝で聖書の説教を聞いた時に、その内容が心に響けば響くほど、それまでの自分がどれほど自分中心だったかを思い知るのです。そしてそれは、自分では認めたくないことです。できれば聞きたくない、理解したくない、受け入れたくない、「耳が痛い」言葉なのです。
説教を聞いて、すぐに納得できなくても当然です。それは、私たちができないことを語っています。そこで私たちは、自分自身を問われ、反省して、神様のところに戻るのです。聖書の言葉に耳を傾け、謙遜になって参りましょう。
聖書を読みます。「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」(ガラテヤ6:4)