おはようございます。ご機嫌いかがでしょうか。大宮教会牧師の辻幸宏です。
聖書では、「放蕩息子のたとえ」が語られています。二人息子の弟は、父親の財産を譲り受け、家を出てしまいます。放蕩を続け、すぐに財産のすべてを使い果たし、無一文にまでなります。
このとき彼は、我に返り、そして思います。「『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』」(ルカ15:17-19)彼はこのとき、自分の愚かさ、罪が示され、そして、父親のところに帰る決心をしました。
いざ、彼が父親のところに帰ると、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻」(ルカ15:20)しました。そして父親は、僕たちに語ります。「『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」(ルカ15:22-24)
神さまは、放蕩息子が帰ってきたように、あなたが教会に来ることを無条件に受け入れ、喜び祝ってくださいます。