いかがお過ごしですか。上福岡教会の杉山です。
有名なモンゴメリの「赤毛のアン」のセリフに、「想像の余地」という言葉があります。他の人にはただの景色に過ぎないもの、例えば、桜がきれいだ、で終わってしまう景色も、アンの目には、花嫁の姿に見え、さらには、自分の結婚への期待まで語られます。
聖書の詩編にも、同じように、目の前の景色から、すばらしい世界を思い描く言葉にあふれた詩があります(詩編48編参照)。「シオン」という名が登場します。今の「エルサレム」のことです。エルサレムは、イスラエル南部の低い丘の上の小さな町です。しかし、その詩においては、北の果ての高く美しい神の都として描かれています。エルサレムの建物は、神殿や王宮こそそれなりに立派だったかもしれませんが、全体としては、低い建物が連なっていたはずです。しかし、広い城郭に立派な砦の塔が連なる様子が描かれています。これは、想像の世界です。
実は、この詩には、そのような想像の種明かしとも、あるいは、想像の勧めとも取れる言葉があります。それは、「神よ、神殿にあってわたしたちは あなたの慈しみを思い描く。」(詩編48:10)です。現実の神殿の中で、神がわたしたちにして下さる素晴らしいこと、圧倒的な守り、実現していく正義、それを喜び歌う人々の様子を思いめぐらそう。そして、この幻のシオンの周りをまわり、塔の数を数えよう、と。
なぜ詩人はこのように勧めるのでしょうか。それは、このような未来への喜ばしい想像こそ、世代を超えて人を生かしていく力があるからです。