いかがお過ごしですか。上福岡教会の杉山です。
聖書の詩編には、イスラエルの歴史が現れています。イスラエルの歴史とは、神によって助け出され、大きな勝利をつかんだにもかかわらず、やがて、神を忘れて失敗し、国が滅びに向かう、という一つのパターンとして理解できます。
その悪い時に、神に助けを求める言葉が、詩編にあります。「辱めは絶えることなくわたしの前にあり わたしの顔は恥に覆われています。嘲る声、ののしる声がします。報復しようとする敵がいます。」(詩編44:16-17)これは、時代を超えた叫びかもしれません。わたしたちも、辛い出来事に出合う度に、ここまで大げさでなくても、心の中で、「恥ずかしい目に遭った」とか、「怖い思いをした」と言っていることがないでしょうか。
しかし、この詩編で奇妙なのは、今味わっている悲惨さは神からきていると、この詩人がはっきりと書いていることです(詩編44:10-11参照)。自分の民を悲惨な目に会わせる神というありかたは、私たちの理解を超えたところがあります。神とは優しい存在、あるいは、嬉しいことを起こしてくれる存在ではないのか、と問いたくなります。
しかし、そうであるにもかかわらず、この詩人の言葉には、希望があります。それは、今自分たちを打ちのめしているように見える神、もし、その神がこの私の運命を握っているのなら、助けもまた、まさにこの神から来るだろう、という希望です。神は、悲惨なところにあるものに、必ず助けを与えて下さる。この事を詩人は信じているのです。