ご機嫌いかがですか。所沢ニューライフ教会の玉井宣行です。
一人の高齢の方が、教会を訪ねて来られました。「長く教会に行っていなかったのですが、もう一度礼拝に出席させてください」とのことでした。
次の週の礼拝から、この方は、毎週欠かさず出席するようになりました。コロナ感染症がまん延し始めたころ、大事をとって、日曜日にはご自宅で個人礼拝をささげるようになりました。礼拝で語られるメッセージの原稿をご自宅にお送りすると、決まって、お礼と近況報告の電話がかかってきました。電話の最後で、いつも一緒に神に祈りました。
電話を通して新しい交わりが始まり、2年が経過したある日、ご家族から、この方が外出先で亡くなったとのお知らせを受けました。合計3年という短い期間の交わりでしたが、亡くなった後、その方の存在の大きさを痛感させられました。その時、「私のような罪深い者を、牧師先生はいつも電話とお手紙で励ましてくださり、感謝しています」との、その方の言葉が、心によみがえってきました。
キリストは、聖書の中で、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13)と祈った人について、「義とされたのはこの人だ」と言われました(ルカ18:9-14参照)。神の前で自分の小ささを告白する者にこそ、神はいつも寄り添って、その人を輝かせてくださるのです。