おはようございます。松戸小金原教会の三川共基です。
昨日の祈りは、声にならないようなものだったでしょうか。まとまらない言葉で祈った途端、「ああ、言わなければよかった」と、悔いることがなかったのなら良いのですが。
でも逆に、祈った後、「今日は良い祈りができた」と、清々しい気分になることの方が少ないかもしれませんね。でも、たとえまとまらない言葉であっても、か細い声であっても、あなたの祈りは、確かに、神に聞き入れられています。主イエス・キリストが、あなたの祈りの一言一句を聞き漏らすまいとしているからです。
聖書には、祈りの模範となる詩編集があります。でも時に、「そんなことまで言ってもいいの」と思ってしまう内容のものがあります。ある詩編では、最初は神をたたえているのですが、中盤から、神への文句が何度も出てきます。「あなたは我らを見放されました。」(詩編44:10)、「あなたは我らを食い尽くされる羊として 国々の中に散らされました。」(詩編44:12)と。
実際、問題の原因があったのは、この詩を歌う側の人たちなのですが、神に文句を垂れるという始末です。しかし、最終的には、この苦しみから助けてくださいと切実に願っていきます。なんだか目も当てられないような祈りなのです。でも神は、そういう支離滅裂な祈りの中にさえも、信仰のかけらを見出してくださいます。