いかがお過ごしでしょうか。東京教会の野島邦夫です。
イエスの十二弟子の中で、名がよく知られているのは、ペトロ、ヨハネでしょうか。別の悪い意味で、イスカリオテのユダでしょう。それは、イエスを裏切って十字架の死に追いやりましたから。今回のシリーズでは、このユダを巡って考えています。
ユダがいつから裏切ろうと思い始めたのか、それはわかりません。イエスに同行する中で、金も出世も無理だと思うようになったのでしょうか。直接の裏切りの行動は、十字架の日の前々日敵たちに、銀貨30枚でイエスを引き渡す約束をした時、始まります。そしてその翌日、郊外の祈りの場で、ユダの先導で、敵たちはイエスを捕らえます。死が決定的になります。
これら一連の行動を、ユダは、強いられてではなく、彼自身が自由に考えて、自由に決意して行いました。ところが、イエスの十字架の死は、神の救いの意志の実現だと言われます。「人の罪を負って、僕は命を取られる」というイザヤ書の予言(イザヤ53章参照)通りです。
ユダがイエスを裏切ったのは、本心からです。それは裁かれるべきでしょう。けれども、神の意志は貫かれます。ここでは、人間の主体的な行動と神の救いの意志実現とが、むらなく溶け合っています。私たちも、自分の生まれながらの思いで行動する時、神の意志を邪魔します。裁かれます。けれども、神の意志は貫かれます。