いかがお過ごしですか。上福岡教会の杉山です。
聖書には、イエスがたとえ話をするところが、何度も出てきます。
そのたとえに、こんなものがあります。エルサレムという町から、近くのエリコという町に行く道で、ある人が強盗に襲われ、瀕死の重傷を負って倒れていた。すぐ後に、祭司が、側を通ったがよけて通り過ぎた。次に、神殿で働く人が通りかかったが、同じようによけて通り過ぎた。
ところが、あるサマリア人はやってくると、その倒れている人を手当てして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って部屋を確保し、次の日には、さらに治療費を預けて、宿屋の主人に後を頼み、出かけて行った。実にさっそうとしたサマリア人の振る舞いです。後を引かず、お礼を求めず、全く倒れた人のためだけを思った行動といえるでしょう。(ルカ10:30-35参照)
実は、これは、人を愛するとはどういうことかを語るたとえ話です。しかし、このたとえには、もうひと工夫があります。それは、ここで登場する「サマリア人」というのは、イエスの生きたイスラエルの国の人たちからとても嫌われていた、という事実です。どうにも嫌いな、認めたくない国というのが、ひょっとして皆さんにもあるでしょうか。もしそうなら、サマリア人の所に、そのような国の名前を入れてみてください。
イエスは、あえて人を愛するたとえに、そのような対立するサマリア人の名前を入れられました。それは、そもそも人を愛するということは、この人は愛するけれども、この人は愛さない、というような条件を付けることを超えたものだ、と示すためです。