おはようございます。今月この番組を担当します、仙台教会の風間義信です。どうぞよろしくお願いします。
秋たけなわといった感じですが、読書の秋とも言われるこの時期、改めて、聖書の言葉に耳を傾けていただけたら嬉しく思います。
聖書には、イエス・キリストについて教えられていることや、本人がその生涯の中で語られた言葉が収められています。それを、聖書自体が「十字架の言葉」と言っています。その通り、イエスは、十字架に架けられ、苦しめられました。その姿を見た時、まるで力もなく、惨めな最後だったとみられるかもしれません。
けれども、そうではありません。その姿は、私たちのために、逃げずに耐え忍ばれたものです。私たちの神から離れた思いや行動、それを罪と言いますが、こちらからは拭うことのできない重荷を身代りとなって負って下さいました。それが十字架です。その姿は、確かに愚かに見えるかもしれません。けれども、その愚かさが、私たちの救いのためであることを知らせることこそ、十字架の言葉の目的です。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」コリントの信徒への手紙一 1章18節、23節