おはようございます。日本キリスト改革派の東仙台教会で牧師をしております、尾崎純と申します。
教会というところでは、「愛」という言葉をとても大切にします。愛という言葉を聞くと、どんなことをイメージするでしょうか。恋人同士のロマンチックな語らいでしょうか。それとも、我が子に対する親の温かい思いでしょうか。
もちろん、それらは素晴らしいものです。しかし、聖書で愛という言葉が使われる時には、ほとんどの場合、人間同士の愛を表す言葉とは違う言葉が使われているのです。聖書の愛は、人間の愛ではなく、神の愛なのです。
では、人間の愛とは違う、神の愛とはどのようなものでしょうか。聖書は、十字架の愛こそ神の愛であると言います。十字架とは何でしょうか。神の子が、自分から、頼まれてもいないのに人の罪を背負って、代わりに罰を受けることです。ですから、自分には全く利益はありません。ただ、相手のためを思って、自分から、何も言わずに犠牲になるのです。
それに対して、人間同士の愛は、お互いに利益になることを良しとするものです。もちろん、それも素晴らしいものですが、もっと素晴らしい神の愛が私たちに注がれているということに、感謝したいと思います。