聖書を開こう 2022年11月17日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  生きるにも死ぬにも(フィリピ1:19-26)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日本語に「命あっての物種」という表現があります。死んでしまったのでは元も子もないということです。確かにその言葉には一面の真理があります。また、そうであるからこそ、命は大切にしなければなりません。

 しかし、反面、すべてが現世のことだけに限られていると考えてしまうと、死ぬことには何の益もあるはずがないという考えになってしまいます。

 ところがきょうこれからお読みする個所には、死ぬこともまた利益なのだという考えの中で、生きるか死ぬかで板ばさみになっているパウロの心の内面が描かれています。もちろん、このパウロの言葉が独り歩きして、死を急ぐことがあってはならないことは言うまでもありません。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 フィリピの信徒への手紙 1章19節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。」

 きょうの個所にはパウロの心のうちにある複雑な思いが吐露されています。パウロは獄中にあってこの手紙をしたためています。裁判の判決はまだ出ていませんから、生きて釈放されるのか、それとも、このまま牢獄で一生を送るのか、あるいは、最悪の場合、死刑に処せられるのか、不透明で不安な要素があるまま、パウロは自分の気持ちをしたためています。

 前回も学んだように、パウロは「福音の前進」という観点から物事を見ています。自分が投獄されたことによって、キリストの福音が前進していったことを純粋に喜んでいます。そして、そのことが自分の釈放へと繋がるのではないかという期待も持っていました。しかし、パウロはただ単に楽観的な見通しを持っていたというのではありません。最悪の事態も想定して覚悟を決めていました。そのどちらの事態になったとしても、パウロには一つの方針、一つの希望がありました。それは「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようになる」という願いであり希望でした。

 投獄されたまま死んでしまうのと、釈放されて再び福音の宣教を開始するのとでは、ふつう誰が考えても雲泥の差があります。そのどちらが待ち受けているのかによって、これからについての覚悟も当然違ってくるはずです。

 しかし、パウロにとってはそのどちらが待ち受けていようとも、同じ気持ち、同じ心で過ごす方針がありました。それは、生きるにも死ぬにも、自分の身によってキリストが公然とあがめられるようになるという生き方の方針です。自分の全生涯が自分自身のためにあるのではなく、キリストが崇められ、キリストが栄光をお受けになることのためにあるという考えです。その方針を貫いて生きる時、死さえも肯定的に受容することができるようになるのです。パウロにとって大切なことは、どれだけの長さを地上で過ごしたかではなく、自分の生き方と死に方を通して、どれだけキリストの聖名がほめたたえられたかということなのです。

 もちろん、パウロは自ら進んで命を落とそうとしているのではありません。そうではなく、たとえ死の判決が下されようとも、それによってキリストの聖名が崇められるのであれば、本望だとパウロは覚悟を決めているのです。

 地上から去ってキリストのもとへと行くのか、それとも、もう少し地上で働きをゆるされるのか、もしそのどちらかを選べるのだとしたら、パウロはたちどころに困ってしまいます。なぜなら、どちらにしても、キリストの栄光がほめたたえられるのですから、どちらにしても有意義な人生を送ることができるからです。もっとも、パウロの希望を言えば、地上での働きを解かれて、キリストのもとへと行きたいと切望しています。もちろん、パウロはこの地上にあってもキリストが共にいてくださることを確信していました(1テサロニケ5:10)。キリストが共にいてくださらない地上を去って、キリストが共にいてくださる天国へ行きたいと言っているのではありません。パウロが望ましいと感じているのは、地上にあるという制限を越えて、キリストとの交わりを存分に味わいたいということなのです。

 しかし、それと同じくらいの思いで、フィリピの教会のために仕えたいという率直な気持ちもパウロは持ちつづけています。フィリピの教会の必要を考えると、その必要に応えて生きることもまた神の栄光に繋がるからです。

 パウロはこのようにして自分の心の中にある複雑な思いを述べながらも、しかし、一つの確信へと導かれていきます。

 「あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう」

 パウロは一方では死ぬという可能性も視野に入れながら覚悟を決め、キリストと共にいることを切望しながらも、しかし、他方では自分が釈放されて再びフィリピの教会のために仕えることができるという確信を得ています。パウロが自分は釈放されるかもしれないと確信したのは、けっして、自分をとりまく状況からの判断ではありませんでした。そうではなく、フィリピの教会に対してなすべきことがまだあるという思いから、主が必ずやその必要を満たしてくださるに違いないと確信したからです。

 パウロとは全然状況が違いますが、わたしたちの生涯も、ただ、キリストにささげられた生涯であることを覚えたいと思います。このお方のために生きることを願う時に、生きることも死ぬことも積極的な意味をもって受けとめる事ができるようになるのです。

 パウロは別の手紙の中で、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と述べています(ローマ14:8)。私自身が私のものではなく、主のものであるという確信が、生きるにしても死ぬにしても大きな支えとなっているのです。

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