メッセージ: 福音の前進を喜ぶ(フィリピ1:12-18)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
同じことが起こりとしても、それを前向きに捉えていくのか、それとも、後ろ向きに消極的に捉えていくのかで、ずいぶんと人の生き方は変わってしまうものです。
今学んでいるフィリピの信徒へ宛てた手紙を書いたパウロは、いろいろなことを前向きに考えることが出来る人だと思います。特にこの手紙の中にはそういうパウロの前向きな姿勢をそこここに感じることが出来ます。
実際パウロがこの手紙を書いたときには獄中にいたということを、ややもすると忘れてしまうほど、福音や教会に対するパウロの取り組みの熱心さを感じることができます。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 フィリピの信徒への手紙 1章12節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」
きょうお読みしたところから、いわば、手紙の本題に入ります。先ずその冒頭で、パウロは自分の近況を語ります。
「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」
もっとも自分の近況を語るのであれば、ここでいう「わたしの身に起こったこと」こそが話題の中心であるべきです。一体パウロの身に何が起こったのか、わたしたちには興味津々です。しかし、残念なことに、「わたしの身に起ったこと」について、パウロは一向に語ろうとはしません。
確かにパウロの身に起ったことについては、フィリピの人たちには周知の出来事であったのかもしれません。それで、あえて書く必要がなかったのかもしれません。というのは、この手紙をよく読むと、パウロとフィリピの教会の信徒たちの間では、何度か往来があったことが伺われるからです。パウロが投獄されたことは、既にフィリピの人たちの耳に入っていたのかもしれません。
しかし、この手紙を読む現代の私たちには、かろうじて次の節で牢獄に監禁されていたことが明らかにされます。しかも、監禁されている事実にほんの少しだけしか言及されていません。誰が考えても監禁されているということ自体、とても大きなニュースです。どんな経緯で監禁されるに至ったのか、そして、監禁の結果パウロがどれほど辛い目に遭っているのか、読むわたしたちとしては、もっと知りたいところです。
しかしパウロは自分が監禁されているということ自体よりも、またその結果、自分の自由が奪われているという事実そのものよりも、そのことがもたらした予想外の結果の方により大きな関心を寄せています。
それは、パウロが監禁されたということが、かえって福音の前進に役立ったということです。パウロにとっては自分の身柄のことよりも、福音の前進と言う点にこそ大きな関心があったのです。囚われの身であるというマイナスの要因にばかり目を留めて、この苦しい境遇に埋もれてしまうのではなく、囚われの身であることがもたらした積極的な結果に目を留め、これを神のなしたもう大きな御業と受けとめているのです。
では、パウロが囚われの身になったことが、どのように福音の前進に繋がったのかと言うと、それは三重の意味でそうでした。
まず、パウロには弁明の機会が与えられたのでしょう。あるいは取り調べの中で明らかになったのかもしれません。とにかく、パウロが捕らえられる最大の原因が、単なる騒ぎや混乱のためではなく、「キリストのためである」ということが明らかになったのです。逮捕・監禁ということがなければ、パウロが宣べ伝えているキリスト教について、ローマの官憲たちはゆっくり聞くチャンスもなかったことでしょう。そういう意味で、囚われたことが、かえって福音の前進につながったのでした。
ちなみに、ローマ時代の一般の文書の中にキリスト教のことが出てくるのは、政治犯として逮捕されたキリスト教徒についての記述がほとんどです。もちろん、そのような逮捕は誤解に基づくものですが、しかし、そういう事件があったために、当時のキリスト教徒たちの様子が文書に残され、後世に伝えられたというのも事実です。たとえば、小プリニウスが残した記述は当時のキリスト教の様子を知る上で大切な資料です。
ところで、イエス・キリストは弟子たちに神の国の福音を委ねて宣教へと送り出すに当たって、弟子たちにこうおっしゃったことがあります。
「(あなたがたは)わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」(マタイ10:18)
この言葉に漏れず、パウロも逮捕監禁ということを通して、普段は接することのできない高官たちにも福音を語るチャンスが与えられたのです。囚われの身となり、裁きのために引き出されるということは、決してマイナスなことばかりではないのです。
そればかりか、さらにそのことが他の多くのクリスチャンたちを刺激して、よい意味でも悪い意味でも、福音を熱心に語る人たちを起こしたのです。ある人はパウロと同じ思いで福音を熱心に説いて回りました。しかし、ある人たちはパウロに対する対抗心から福音を熱心に伝えたのです。いずれにしてもパウロが逮捕監禁されたという最悪の事態が、人間の思いを超えたところで、福音宣教の前進へと発展していったのでした。福音宣教の働きが一気にしぼんでしまうのではなく、かえって進展していったのです。
こうして福音はパウロ自身の弁明によって、また、パウロと気持ちを同じくする人々によって、さらにはパウロに対抗心を燃やす人たちによって、三重の意味で前進していきました。
ところで、「ねたみと争いの念にかられて」「自分の利益を求めて」パウロを苦しめようと「不純な動機から」福音を宣べ伝えた者たちが何者なのかということは、わたしたちにとってはとても興味のあるところです。しかし、このことでさえ、パウロにとってはどうでもいいことだったのです。パウロの近況を知らせるこの部分は、あくまでも「福音の前進」という事実に中心を置いてパウロは語っています。それは、パウロが自分自身に与えられた福音宣教の使命を中心に据えて物事を見たり考えたりしているからにほかなりません。こうして、純粋に福音の前進を喜びとするパウロの姿勢にわたしたちもまたあずかっていきたいと願います。