メッセージ: パウロの祈り(フィリピ1:7-11)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会に関わる仕方は人それぞれいろいろあるだろうと思います。ある人は生まれた時から同じ教会の中で育ち、一生涯、他の教会で過ごす経験がないという人もいます。またある人は仕事や結婚のために住む場所が変わってしまい、教会を何度か変わるという人もいます。牧師の中にも一生涯同じ教会を牧する人もいれば、あちこちの教会で働くという人もいます。しかし、いずれにしても、自分が少しでも関わった教会と言うのは思い入れのあるものです。その教会のことを思い浮かべるとそこに集う一人一人のことが心によぎってくるものです。
今学んでいるフィリピの教会に宛てた手紙を読んでいると、パウロにとってこの教会がどれほどいとおしいものであったのか手にとるように分かります。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 フィリピの信徒への手紙 1章7節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
前回の学びでは、フィリピの教会について、パウロがどれほど神に感謝しているのかと言うことを学びました。それはフィリピの教会の人たちが、福音に接してから今日にいたるまで、福音に与ってきたからです。そして、それは他でもなく、神ご自身の力強いご計画とその実行とに支えられてのことでした。人間的に考えれば、比較的短い期間でフィリピの土地を去らなければならなかったことは、パウロにとってはとても不安であったはずでした。しかし、この手紙をもう少し読み進めると明らかなように、この教会の人たちは、パウロが去っていった後、ただかろうじて教会に留まっていたというのではなく、もっと積極的にパウロの福音宣教のためにかかわりをもってきたのでした。そういうことがあったので、パウロの感謝の思いはひとしおならないものがあったのです。
「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」と、こうまで言い切ってしまうのは、他の手紙には見られないほどの思いです。
さて、9節から11節にかけて、パウロがこの教会のために祈った、祈りの言葉が記されています。きょうは特にこのパウロの祈りの言葉から学んでみたいと思います。
ここに記されているのは三つの節に渡る祈りの言葉ですが、パウロはここで大きく二つのことを祈っています。
その一つは「あなたがたの愛がますます豊かになりますように」ということです。そして、もう一つの祈りの中心は「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となりますように」ということです。
まず最初の点を考えてみたいと思います。
パウロはここで、フィリピの教会の人たちの愛がますます豊かになることを願っています。その際にパウロはこの愛が、「知る力」と「見抜く力」とを伴ったものであることを願っています。「愛」とは何かと考えてみれば、ただ感情的な優しさと言うことばかりではありません。パウロが願っている「愛」は深い知識と洞察力を伴う愛なのです。よく知ること、よく見ること、それがなければそもそも本当の愛ではありません。憎しみが愛を損なっているのではなく、他者への無関心が愛を損なっているのです。その人の必要を知ること、その人のことを関心をもって見つめること、そういうことが伴った愛が溢れんばかりになることをパウロは願っています。
では、何のために愛が溢れんばかりに豊かになることをパウロは願っているのでしょうか。それは「本当に重要なことを見分けられるように」なるためです。言い換えれば、愛がないところに本当に重要なことを見分ける力もないということです。
愛があってこそ、何が大切で、何が大切ではないのか、見分けることができるようになるのです。愛を抜きにして、何が本当に重要なことであるかを判断することはとても危険なことなのです。
わたしたちは生きていく上で、色々な場面で判断を迫られることがあります。自分自身のこと、仕事のこと、教会でのこと、子供のこと、色々な場面で重要な決定をしなければならないことが数多くあるはずです。
パウロはそのような重要な判断のために、知る力と見抜く力とを伴った愛がますます豊かになることを願っているのです。
さて、祈りの二番めの中心は「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となりますように」ということです。
まず、この祈りの中で心を惹かれるのは、パウロの思いが「キリストの日」つまり世の終わり、万物の完成の時へと向かっているという点です。目先におこる様々な事柄を超えて、目標をしっかりと見つめている点です。
パウロはすでに6節のところで「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」と述べています。パウロの祈りはこの確信と結びついているのです。パウロは何よりもよい業をはじめてくださった神が、フィリピの教会の一人一人を導いてくださって、清い者、とがめられるところのない者として完成されることを期待し、願っているのです。
しかもそれはフィリピの教会の一人や二人がかろうじて「清い者、とがめられるところのない者」となればよいという願いではなく、共同体としての教会がキリストの日に備えてそのように清められることを願っているのです。
しかし、このような清さへと向かう者たちにとって必要なのは、「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受ける」ということなのです。あとでパウロも述べていますが、パウロ自身、自分を完成した者だとは思ってもいません。清さへの途上にある者として自分を描いています。「何とかして捕らえようと努めている者」「自分がキリスト・イエスに捕らえられている者」として自分を認識しています(フィリピ3:12)。そういう者として、キリストの義の実を溢れるほどに受けることが必要なのです。
最後に、この祈りは、この清さが何のためのものであるのかを述べて終わっています。それは「神の栄光と誉れとをたたえる」ためなのです。わたしたちの生涯の終わりにあるものが、神への心からの賛美でありたいと思わされます。