聖書を開こう 2022年9月1日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  私たちが近づいたのは(ヘブライ12:18-24)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 目標を見誤ったり、目的を勘違いしてしまうと、正しく進むことはできません。この「ヘブライ人への手紙」の学びでは、この何回か連続して、父親が子供に与える訓練と比較しながら、この地上で遭遇する困難を、神が私たちに与える訓練として受け止めるようにと勧めがなされました。

 今の時代の父親はどうかわかりませんが、少なくともその当時の父親像は、厳格なイメージが一般的でした。時には子供に対して横暴なふるまいをする父親もいました。そういう人間の父親像に引きずられて、何でもかんでも人間の父親と神とを同じように考えてしまうと、この手紙の著者が言おうとしている主旨からは、どんどんそれていってしまいます。

 今日これから取り上げようとしている個所では、父である神が私たちを導き入れようとしている恵みの側面に、再び私たちの心を向けさせています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 12章18節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。

 きょう取り上げた個所は、前後の流れから唐突な印象を受けれるかもしれません。父が子供に与える訓練の話から、いきなり燃える火や黒雲、暗闇、暴風など脈絡のない話が飛び込んできたように感じられます。まして、旧約聖書に馴染みのない人にとっては、何の話のことを言ってるのか、それすらわからない話です。

 前の文脈とどうつながっているのか、ということはいったんわきへ置いておくとして、ここで語られていることが、何を指しているのか、そこから見ていきたいと思います。

 きょう取り上げた個所の前半で語られている事柄は、明らかにモーセがシナイ山で神から律法を授かったときの場面に由来しています。

 申命記4章11節で、モーセはその時の様子を振り返って、こう語っています。

 「あなたたちが近づいて山のふもとに立つと、山は燃え上がり、火は中天に達し、黒雲と密雲が垂れこめていた。」

 また、それに先立って、出エジプト記19章12節以下には厳格な命令が告げられました。

 「山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。……獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。」

 このモーセがシナイ山に登って律法を授かった場面に対して、後半では、その恐ろしい場面とは対照的な「生ける神の都」「天のエルサレム」「無数の天使たちの祝いの集まり」など、天上における祝福に満ちたイメージが描かれています。

 著者はここで明らかに新しい契約の時代の恵みや祝福を強調しているように思われます。

 今まで著者が語ってきた訓練のイメージはどちらかといえば、厳しいイメージが先行するものでした。ややもすると、その行きつく先は、モーセが律法を授かったあのシナイ山の恐ろしい場面と重なるものがあると思われてしまうかもしれません。けれども、著者ははっきりとこう述べます。

 「あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。」

 神が私たちを導き入れてくださるのは、天上の祝福に満ちた集会です。それはイエス・キリストの血によって贖われた者たちの集会です。前回取り上げた個所には、
「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」とありましたが、キリストと共にあるとき、招き入れられたこの集会の中で、神にまみえる恵みを頂くことができるのです。

 この地上で信仰者として受ける受ける苦しみが、たとえそれが訓練のためだと分かっていても、その先にある世界が、さらに恐ろしい世界であったとしたら、誰がその訓練に耐えられるでしょうか。

 わたしたちキリストの血によって贖われた者たちが近づいているのは、そのような世界ではありません。

 このことを述べるとき、この手紙の著者は、「シオンの山」を最初に挙げています。「シオンの山」はエルサレムの神殿が建つ丘です。幕屋や神殿は神がその民と共に住んでくださることを現す象徴です。ですから、すかさずこの「シオンの山」を「生ける神の都」と言い換えています。ここで述べられている「シオンの山」が文字通りの意味のシオンの山を念頭に語っていたのだとしても、著者が伝えようとしていることは十分に伝わります。著者の頭の中には、生ける神が共に住んでくださる神の都として、このシオンの山をシナイ山と対比させているのでしょう。

 しかし、この手紙の著者は、シオンの山やその上に建つ神殿に注がれる目を、一気に天上の世界へと引き上げます。

 「天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会」

 すでに、この手紙の11章では、信仰を抱いてこの地上に生きる者たちを、天の故郷を熱望して旅する寄留者のように描いていました。ですから、この手紙の著者が「天上のエルサレム」や天上の世界に言及するのは当然の流れです。私たちが、キリストの血によって贖われ、近づくことが許されているのは、まさにこの天の集会なのです。ただし、旧約時代の信仰者と違うのは、既にキリストを通して、この天の恵みにあずからせていただいているということです。前味を味わっているからこそ、天上の世界の素晴らしさを私たちはより一層思い描き、期待することができるのです。

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