聖書を開こう 2022年8月4日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  イエスを見つめて(ヘブライ12:1-3)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「前人未踏」という言葉があります。未だかつて誰も足を踏み入れたことがないという意味です。そういうところへ行くということは、とても勇気がいることです。しかし、いったん誰かがそこへ行ったとなれば、二番目に行く人の苦労は、最初の人の苦労とは全く違います。最初の人の経験を参考にすることができるからです。

 また、自分が初めて走る山道を運転するときに、もし自分の前に地元ナンバーの車が走っていると、それだけで緊張感が全然違います。特に暗い山道に前を走る車がいると、運転しやすくなります。

 私たちの信仰生活もそれに似たところがあります。もし、自分以外に真の神を知っている人がいなければ、自分が正しい道を歩んでいるのか、それすら不安になってきます。

 今まで「ヘブライ人への手紙」の11章から私たちの前を行く信仰に生きた人たちを見てきました。そうした人たちの信仰の模範を知ることで、進むべき道が見えてきます。しかし、それ以上に私たちにとっての先導者は、イエス・キリストご自身です。もちろん、イエス・キリストが持っていらっしゃる神としてのご性質については、私たちはそれを持ち合わせていませんから、これを真似ることも参考にすることもできません。しかし、まことの人であり、第二のアダムであるイエス・キリストは私たちが信仰に生きるときに、いつも目を留めるべきお方です。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 12章1節〜3節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

 今まで「ヘブライ人への手紙」の11章から信仰に生きた人たちを見てきました。聖書に出てくる信仰者たちをすべて網羅した訳ではありませんが、少なくとも代表的な人々について見てきました。

 そのことを受けて、この手紙の著者は12章の冒頭でこう述べます。

 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」

 私たちは時代をさかのぼってこれらの信仰者たちのことを見てきましたが、今度は、それらの先を行く信仰者たちが、競技場で走る私たちを見守っているようなイメージで描かれます。おびただしい証人の群れに囲まれているとは、何と心強いことでしょうか。わたしたちの進むべき道は、決して前人未踏の地ではありません。代々の信仰者たちが歩んできた道です。

 日本でキリスト教信仰を持つことは、時として家族で自分一人がクリスチャンであるということがあります。自分の信仰が理解してもらえないどころか、場合によっては信仰のためにいわれのない反感さえ買うことがあります。そんなとき、自分は独りぼっちの信仰者であるような気分にさえ陥ってしまかもしれません。しかし、少なくとも教会に集う信仰の仲間がいます。そして、それ以上にアベルから始まって、信仰に生きた人たちがおびただしくいます。その人たちの証が周りにあふれています。

 それらの人たちが歩んだ道は決して楽な道ではありませんでした。ノアもアブラハムもモーセも信仰の戦いがありました。

 そうした信仰の先達に囲まれて私たちは、今、自分の競技場を走っている選手のように描かれています。

 ランナーにとって大切なのは、第一に身軽であるということです。わざわざ重たい荷物を抱えて競技に参加数人はいません。走りにくいまとわりつくような服装で競走する人はいません。同じように信仰の道を走る者にとって大切なのは、罪という重荷と障害をかなぐり捨てることです。

 罪と決別することは、弱さを身に負った私たち人間には決して簡単なことではありません。聖霊の助けがなければ、罪から清められることはありません。しかし、この手紙の著者は、あえて「かなぐり捨てる」という強い言葉を使っています。そこには妥協やいい加減さはありません。

 ランナーにとって大切な第二の点は、忍耐強さです。苦しいからと言ってすぐにあきらめてしまうランナーはゴールに到達することができません。どんなランナーでも忍耐強く練習し、走りぬくことでゴールに到達することができるのです。それは信仰についても同じです。残念ながら信仰にはインスタントな信仰はありませんし、近道というものもありません。走るべき行程を忍耐強く走ってこそ栄冠を手にすることができるのです。

 そこで、私たちがもっとも目を留めるべきお方として、この手紙の著者はイエス・キリストを挙げています。しかも、信仰の創始者であり、完成者としてこのお方のお名前を挙げています。

 イエス・キリストは今まで見てきたおびただしい信仰の証人たちとは明らかに違っています。第一に、イエス・キリストだけが「信仰の創始者」と呼ばれています。確かにイエス・キリストがこの世にお生まれになったのは、旧約時代に信仰に生きた人々よりも後です。けれども、キリストは世に先立って存在し(コロサイ1:15、ヘブル1:2)、旧約聖書はキリストを指し示しているのですから(ヨハネ5:39)、キリストを抜きにして信仰を語ることはできません。そういう意味で、イエス・キリストこそ信仰の創始者です。

 さらに、信仰の創始者であるばかりか、「完成者」であるとも言われています。キリストは十字架の死を耐え忍び、死者のうちからよみがえって、今は神の右に座しておられます。救いに必要なすべてのことを成し遂げてくださったのですから、信仰の完成者と呼ばれるのは当然のことです。

 そのキリストが地上で歩まれた道は、決して平たんではありませんでした。何よりも十字架の道がそれを示しています。キリストはもっとも残虐で、もっとも不名誉な死を、罪びとの救いのために引き受けてくださいました。

 このキリストに目を留めよ、とこの手紙の著者は勧めます。多くのことに目を留めるあまり、結局どこに向かっているのかゴールを見失ってしまうことがあります。キリストを見つめ、キリストが開いてくださった道を歩むときに、確実にゴールに到達することができるのです。たとえその道が険しい道であったとしても、その道はキリストが私たちに先だって歩まれた道だからです。

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