聖書を開こう 2022年7月28日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  数限りない信仰者たち(ヘブライ11:32-40)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「教会」とは建物のことではなく、イエス・キリストを信じる者たちの集まりである、としばしば言われています。その場合、一般的には、現在教会に集まっている生きた信仰者たちのことがイメージされています。例えば、あなたの教会のメンバーは何人ですか、と尋ねられたら、亡くなっている信徒は数には含めないでしょう。

 しかし、キリスト教会では、この地上にある教会ばかりではなく、既に神のみもとに召された人たちからなる天上の教会も含めて「教会」をイメージする伝統もあります。復活を信じるキリスト教では、信仰者は地上の生涯を越えて聖なる神の民であり続けるからです。

 今、「ヘブライ人への手紙」から信仰に生きた人たちを取り上げて学んでいますが、それは単に過去の信仰者たちの昔話としてそれを取り上げているのではありません。同じ神の約束に今もあずかる同じ共同体のメンバーとして、彼らの信仰が取り上げられています。そのように多くの信仰者たちに囲まれて、私たちは今を生きています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章32節〜40節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

 この「ヘブライ人への手紙」では、今までアベルから始まってカナン定住時代のラハブに至るまで、信仰に生きた人たちを取り上げてきました。そこに名前が挙げられた具体的な人物は全部で10名でした。

 士師が世を納める時代以降、さらに具体的な人物を取り上げて話を進めようとしますが、この手紙の著者は、すべてを網羅するには及ばないと判断して、6人の名前を挙げるにとどめています。ここに挙げられている6名、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルは、旧約聖書に慣れ親しんでいる人にとってはよく知られた人たちです。主に「士師記」と「サムエル記」に登場する人物です。

 これらの人物に続いて取り上げるのは、預言者というひとくくりであったり、具体的なストーリーを思い出すことができる出来事の場面だけを挙げています。

 「獅子の口をふさぎ」と言われているのは、「ダニエル書」6章の出来事に触れていると思われます。異国の王に仕えることになったダニエルは、王の命令に背いてまでも信仰を貫き通したために、ライオンの洞穴に投げ込まれてしまいました。しかし、神はこのダニエルを守ってライオンの餌食となることがないようにとされました。

 「燃え盛る火を消し」というのも、同じ「ダニエル書」の3章に記された出来事を指しているのでしょう。ダニエルの仲間3人は、王が建立した像を拝むことを拒み、燃え盛る炉の中に投げ込まれることになりました。

 その時、彼らは、こう言いました。

 「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(ダニエル3:17-18)

 「剣の刃を逃れ」といわれるのは、1人の預言者ではなく、エリヤにしろエリシャにしろ、神に守れて支配者の剣を免れました。

 死んだ身内を生き返らせてもらった女たちというのは、エリヤやエリシャによって子どもを生き返らせてもらった出来事を指しているのでしょう。

 そのあとに続く出来事は、聖書に記された事件というよりは、いわゆる中間時代の歴史を描いた書物からその題材を得たものと思われます。マカバイ記2の7章以下には、信仰のゆえに豚肉を口にすることを拒んだ7人の兄弟たちが、復活を信じて拷問を甘んじて受けた出来事が記されています。そのことを記したマカバイ記には、その母の信仰をたたえてこう記されています。

 「それにしても、称賛されるべきはこの母親であり、記憶されるべき模範であった。わずか1日のうちに7人の息子が惨殺されるのを直視しながら、主に対する希望のゆえに、喜んでこれに耐えたのである。」(2マカバイ記7:20)

 信仰のゆえに迫害を受け、それでも信仰によってその迫害を耐えてきた人たちのストーリーにはまだまだ終わりがありません。「これ以上、何を話そう」と冒頭部分で述べた著者の言葉は、まさにその通りです。すべての信仰者たちの模範を網羅するまでもなく、両手の指の数ほどの例をあげれば、著者が語ろうとしていることの正しさは十分に伝わります。

 これらの信仰者たちを列挙した後で、この手紙の著者はこう述べます。

 「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした」(ヘブライ11:39)。

 ここで言われている「約束のもの」というのは、イエス・キリストにおいて成就した約束のことを指しています。これらの人々はその時々に神が共にいてくださったことを経験し、その時々の約束を神が守ってくださったことは経験しました。しかし、キリストを通して罪が贖われ、神の恵みの座に大胆に近づくことができるようになった今のこの時代の恵みを味わうことはできませんでした。そういう意味では、約束の成就を待ち望みながら、信仰によって地上での暮らしを忍耐しながら過ごした人たちでした。

 しかし、地上に生きている信仰者という意味では、私たちも彼らと同じようにこの地上では寄留者にすぎません。彼らと同じように忍耐をもって信仰に生きることが求められています。いえ、イエス・キリストによって神の国の豊かな前味を知っている私たちであるからこそ、信仰と希望をもってこの世を生き抜くことができるのです。

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