メッセージ: モーセの信仰(ヘブライ11:23-31)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょうは、「ヘブライ人への手紙」からモーセの信仰について取り上げようとしています。モーセが偉大な人物であったということは、新約聖書の中でその名前が80回も登場することからも明らかです。
モーセは特にその民をエジプトから約束の地へと導き上ったこと、シナイ山で神から律法を授かったことなど、その働きはイスラエルの人々にとって忘れることのできないものです。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章23節〜31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
信仰によって、モーセは生まれてから3か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを7日間回った後、崩れ落ちました。信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。
今、お読みした個所は、正確にはモーセの信仰だけを扱った個所ではありません。モーセの両親や、モーセの時代に続くカナン定住の時代の人たちの信仰についても扱っている個所です。
まず、何よりもモーセがそのように信仰をもって活躍できたのは、両親をはじめ、その周りに生きた人たちの信仰があったことを忘れてはなりません。
当時、エジプトに移住してきたヘブライ人の数が増え、エジプト人にとっては脅威を感じるほどになっていました。そのために、エジプトの王ファラオによって、生まれてくるヘブライ人の男の子は皆殺すようにとの命令が下されました。それも功を奏さないことを知ったファラオは、今度は生まれてくる男の子をナイル川に投げ込むようにと命じました。そのような中で、モーセの両親は3か月間赤子のモーセをかくまいました。
「ヘブライ人への手紙」の著者は、王の命令をも恐れない両親の行動を、信仰によるものとして描いています。この両親の信仰的な決断を、「ヘブライ人への手紙」の著者は、モーセの両親が「その子の美しさ」を見たからだと記しています。この意味は、わが子を思う思いが、王の命令に背く勇気を与えたというよりは、赤ん坊にすぎないモーセの中に神によって与えられた特別な美しさをモーセの両親は見出して、この者こそ神から遣わされた者に違いないと、見えない将来のモーセの使命を信仰によって認めたという意味でしょう。
いよいよ隠し通すことができなきくなった両親は、最善の工夫を凝らしてモーセをパピルスのかごに入れてナイル川の葦の茂みの中に置きます。神の不思議な導きによってファラオの娘がそれを発見し、自分の子供としてモーセを育てます。
こうして命を助けられたモーセですが、成人したときに、同胞がエジプト人から重労働を課せられ、打たれているのを見て、エジプト人を打ち殺してしまいます。そのことで、もはやモーセはファラオの王女のもとにいることはできなくなってしまいました。殺人の行為自体を正当化することはできないとしても、自分の安定した身分を捨て、同胞と同じ苦しみを味わう覚悟の中に、この手紙の著者はモーセの信仰を見て取ります。
もし、あの場でモーセが同胞の苦しみ見て見ぬふりをしてやり過ごしたとしたら、それはエジプト人のしているひどい仕打ちを黙認し、自分も同じ罪を犯しているのも同然になってしまうからです。その上、自分の快適な生活が、そうした同胞の苦役の上に成り立っているとすれば、それは、はかない罪の楽しみにふけっていると同じだと非難されても反論できないことだったからです。そのように信仰によってモーセは考え、ファラオのもとでの生活と決別しました。
ファラオとの決別がもたらすものは、自分ももまたイスラエルの民と同じように虐待される側に回るということです。しかし、モーセは、神がアブラハムに約束し、イサク、ヤコブへと受け継がれてきた神の民としての祝福に留まる方を信仰によって選んだのでした。その祝福の約束は、やがて来る救い主イエス・キリストへとつながるという意味で、モーセはこの苦しみを「キリストのゆえに受ける苦しみ」と信仰的に捉えていたのです。少なくともこの手紙の著者は、モーセの信仰をそのように考えていました。そうであればこそ、モーセは信仰によってファラオのもとを去り、ミディアンの地方へ行く道を選んだのです。
モーセの信仰は、過越の出来事の時にも鮮明に示されたと手紙の著者は述べます。イスラエルの民をエジプトから去らせることをかたくなに拒むファラオに対して、神はエジプト中の初子を滅ぼそうとします。しかし、エジプトにいるイスラエル人の初子はその災難からまぬかれることができました。それは小羊の血を取ってイスラエル人の住む家の鴨居と入口の二本の柱に塗って、しるしとするように命じられたからです。
この神の命令を忠実に伝え、イスラエルの人々に実行させたことの中に、この手紙の著者はモーセの信仰を認めます。やがて起こる災難は未来のことであって、目にはまだ見えません。それを防ぐ方法も人間的に考えれば、何の保証にもなりません。しかし、モーセはそれを神から与えられた救いの保証であると、信仰をもって受け止めたのです。
こうしてエジプトを脱出したイスラエルの民は、信仰によって、陸地を通るようにして紅海を渡り、難攻不落と思われたエリコの城壁を陥落させました。それはモーセその人の直接の信仰ではありませんが、モーセと同じように神の約束を信じた人びとの信仰でした。
このエリコの陥落について、「ヘブライ人ヘの手紙」の著者は、イスラエル人ではない一人の女性の信仰を紹介しています(ヨシュア記2章参照)。エリコを偵察にやってきた二人のイスラエル人をかくまった遊女ラハブの信仰です。この女性はアブラハムの血筋の者ではないということ、しかも、罪深い遊女ですから、一見、アブラハムに約束された祝福とは何の関係もない人物のように思われます。しかし、信仰によって目に見えないまことの神を認め、この方を畏れて行動した点で、まさに信仰によって、神が約束された祝福にあずかる者とされた人なのです。アブラハムから続く血筋ではなく、信仰こそが見えない神の約束を受け取る器なのです。
そういう意味で、わたしたちもまた、信じることによってだけ、神の約束にあずかることができるのです。