聖書を開こう 2022年7月7日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  試練の中での信仰(ヘブライ11:17-19)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今「ヘブライ人への手紙」の中から。信仰に生きた具体的な人物について学んでいます。ここに登場する人物が生きた時代とわたしたちの時代とでは、一つ決定的に違うことがあります。それは神からの語りかけを直接聴くことができた時代か、そうでないかという違いです。もちろん、神は今も生きて働いておられるお方ですから、わたしたちに何の働き掛けもなさらないということはありません。しかし、その働きかけの仕方は、全く異なっているように思います。

 たとえばきょうも取り上げようとしているアブラハムの場合には直接神からの語りかけがありました。直接神が語ってくださっているのですから、お命じになっておられることに自分が同意できるかどうかは別として、それが神の御心であることは明らかです。

 今の時代は神からの直接の語りかけを聞くわけではありませんから、個別の問題で、何が神の御心であるか、前もって知ることは難しいことがほとんどです。例えば、Aという会社に就職すべきか、それともB社に就職すべきか、どちらが神の御心なのか、簡単には判断できません。もちろん、どちらかの会社が不正を行っていることが明らかであるなら、あえてその会社を選ぶのは御心ではないでしょう。しかし、そうでなければどちらが御心かを判断するのは難しく感じられます。どちらかの道が閉ざされ、どちらかの道が開かれることで御心を知るようになることがほとんどです。

 では、アブラハムの場合には神の声を直接聞くことができたので、私たちの時代と比べて信仰に生きることは簡単だったのでしょうか。必ずしもそうではありません。そもそもそれが神からの語りかけであるのかどうかは、信仰的な判断が必要です。イスラエルの歴史で問題だったのは、神の名によって語る偽預言者と本物の預言者が混在したことでした。どちらが正しいのかは、結局のところ信仰的に判断しなければならないのですから、信仰に生きる難しさは今の時代と変わらないということです。

 今日これから取り上げようとしているアブラハムのケースでは、今まで聞いてきた神の御心とは、あきらかに矛盾するようなことが命じられています。この試練をアブラハムはどのように信仰的に乗り越えていったのでしょうか。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章17節〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

 きょう取り上げるのは、アブラハムが受けた信仰の試練の話です。「創世記」22章に記されている話です。ご存じの方も多いと思いますが、こんな内容の話です。

 あるときアブラハムは自分の跡を継ぐことになっているイサクを犠牲として献げるようにと神から命じられます。アブラハムにはイサクの誕生に先立って、女奴隷ハガルとの間に生まれた男の子イシュマエルもいました。しかし、神はこのイシュマエルが跡継ぎではなく、サラとの間に生まれるイサクが跡を継ぐことを神は約束されていました。ですから、アブラハムにとってイサクは神の約束の子であると同時に、神の約束を受け継ぐ独り子であったということができます。

 もし、この命令に従ってイサクを犠牲として献げてしまったら、神の約束は実現しないことになってしまいます。少なくとも人間的にはそうとしか考えられません。自分の手で神の約束の実現を不可能にしてしまうようなことを神がお命じになる。これはアブラハムには想像もできないことだったことでしょう。

 アブラハムにとって、これがまことの神からの命令なのか、それともサタンの誘惑なのか、その判断もむずかしかったはずです。もちろん、アブラハムにはサタンの存在は知られていなかったかもしれません。しかし、蛇がエバをだまして罪に陥れたことは知っていたはずです。今まで神が命じてこられたことと反するようなことを命じられたアブラハムにも、当然、これが真の神からの言葉なのか迷いはあったことでしょう。

 アブラハムがこの試練を乗り越えたのは、人間的には矛盾と思える事柄を、信仰によって矛盾ではないと悟ることができたからでした。

 この手紙の著者はアブラハムの信仰をこう説明します。

 「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」

 確かにイサクを犠牲として祭壇で献げてしまえばもう戻ってこない、というのは人間の常識です。その常識に執着すれば、神の命令は神の命令として聞こえてこなくなってしまいます。しかし、アブラハムはそうではありませんでした。命を与えるのは神ご自身であることをアブラハムは信じていましたので、死を乗り越える力を神が持っていらっしゃることをも信仰によって確信することができたのです。

 ところで「創世記」の記事には、そこまではっきりとアブラハムの信仰の内容が記されているでしょうか。確かにその個所には、「神が人を死者の中から生き返らせることもおできになる」とアブラハムが信じていたとは記されていません。いったいどの部分からこの手紙の著者はそのようなアブラハムの信仰を読み取ったのでしょうか。

 「創世記」22章を改めて読むと、イサクを献げるために従者を連れてモリヤの地に向かったとき、ある地点でアブラハムは従者たちにそこで待つようにと命じました。その時、アブラハムは従者たちに「わたしたちはまたあなたたちのところに戻ってくる」(私訳)と約束しています。アブラハム一人ではなく、イサクと共にです。「ヘブライ人への手紙」の著者は、これをアブラハムの口から出たでまかせとは受け取らず、信仰から出た発言と捉えたのでしょう。確かに、アブラハムは息子イサクを犠牲として献げた後もなお、イサクと共に戻ってくることを確信していたのです。そして、この手紙の著者は、この発言こそアブラハムがイサクの復活を信じていた証拠と考えたのでしょう。

 このような解釈は飛躍しているように思えるかもしれません。しかし、神が死者にも命をお与えになるお方であることをアブラハムが信じていたと証言するのは、この手紙の著者だけではありません。パウロもまた「ローマの信徒への手紙」の中でこう述べています。

 「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」(ローマ4:17)。

 信仰は今も私たちに思いを超えた新しい世界を見させ、試練を乗り越えさせる力を与えることができるのです。

Copyright (C) 2022 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.