聖書を開こう 2022年6月30日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  約束の実現を信じる信仰(ヘブライ11:13-16)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「ヘブライ人への手紙」の著者は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と述べました。目に見えないものはたくさんありますが、そのすべてが信仰によって確信されるわけではありません。

 例えば空気は目には見えませんが、空気が存在することは、科学的に確かめることができます。あるいは、素粒子のようなものの中には、その存在が予言されてはいても、まだ確かめられていないものもあります。それでもその存在を確信するのは、信仰によってではありません。あくまでも科学的観測と論理が導き出した結果です。

 信仰が働くのはこうした科学の分野ではありません。目や耳をはじめとした人間の五感や科学的観察・実験では導き出すことができない神にかかわる分野です。この手紙の著者が特に問題としているのは、神の約束の実現にかかわる事柄です。こうした事柄を確信するためには、信仰が不可欠です。

 今日取り上げる個所でも、信仰を抱いて生涯を送った人々の話が引き続き取り上げられます。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章13節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

 きょうの個所で「この人たち」と言われているのは、特に前回までに取り上げたアブラハムとサラ、そして、その子孫であるイサクとヤコブを念頭に置いているものと思われます。

 これらの人たちは、神から約束された土地カナンに移住し、そこに住みはしましたが、神が約束されたようにその土地を手に入れたわけではありませんでした。また、その子孫は砂浜の砂のように、天の星のように増えると約束されていましたが、その実現を見たわけではありません。その約束の実現を望みながら、信仰をもってその実現を確信し、地上での生涯を終えました。

 約束の土地カナンについていえば、エジプトから民を導き出したモーセでさえも、その土地に入ることはかないませんでした。約束の地カナンを眺望できるネボ山の頂きでモーセは生涯を終えました。

 この世の人々から見れば、約束の実現を何一つ手にすることができなかったのですから、いくら信仰を持っていたとはいえ、結局は意味のない生涯だったと結論づけるかもしれません。しかし、聖書はこれらの人々を、信仰を持って生涯を過ごし、信仰をもって生涯を終えた人々として賞賛しています。

 しかも、それらの人々は、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰によって、約束のものを実際手に入れていないにもかかわらず、喜びの声をあげることができました。そればかりか、信仰によって、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。

 確かにそれらの人々は土地を手に入れてはいなったのですから、文字通りの寄留者でした。しかし、彼らが自分たちを「よそ者であり、仮住まいの者」と呼ぶのにはそれ以上の意味がありました。すでに11章10節にも記されていたように、アブラハムが期待していたのは単なる地上の土地ではありません。神が用意された天の都でした。故郷を天に持つ、地上の寄留者なのです。彼らの心は天に向けられ、はるか天上のことを望み見ていたのです。ですから、この地上で約束が実現するのを見ないとしても決して失望したり落胆することはありませんでした。

 もちろん、それらの人たちは、この地上での約束を飛びえて、天での約束の成就だけを期待していたというわけではありませんでした。神は約束なさったことを必ず成就してくださるお方であることを信じつつ、その延長線上に天の故郷を望み見ていたのです。

 それともう一つ、彼らは地上では寄留者でしたが、隠遁生活者でも仙人でもありませんでした。信仰をもって生きるということが、この世の社会から隔絶された生活を送ることではないと、彼らは身をもって示していました。土地の人たちの間に住み、彼らと交渉を持ち、時には戦いに参戦することもありました(創世記14:13-16)。信仰をもって生きるということは、社会から隔絶され、社会に対して無関心でいることではありません。

 また、それらの人たちは、地上の故郷には決して戻ろうとはしませんでした。それは戻るチャンスが全くなかったからではありません。例えば、アブラハムは息子イサクの結婚相手を捜すときに、カナンの土地の娘たちの中からではなく、自分の故郷の娘たちの中から選ぼうとしました(創世記24章)。この時、故郷に戻って結婚相手を捜すこともできたはずです。あるいはイサクを故郷に戻して、気に入った相手を捜させることもできたはずです。しかし、アブラハムもイサクも故郷へは戻らず、代わりに僕を派遣して結婚相手を捜させました。

 あるいは、ヤコブの場合はどうだったでしょうか。兄のエサウと仲たがいをしたために、約束の土地カナンを出ていかざるを得なくなりました。そして、うわべは結婚相手を捜しに行くという名目で母方の故郷に行きます。まさにその道すがら、神に出会い、神の約束の言葉を神からいただきました。その約束の通り、ヤコブは故郷に留まらず、結婚相手と共に再びカナンに戻ってきます。

 こうした事柄は、ヘブライ人への手紙の著者によれば、彼らが単に地上で実現する約束を待ち望んでいたというばかりではなく、「実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していた」と結論づけられます。それは彼らが地上での生涯を終えた後もなお、神はご自分が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれることを恥となさらないことからもわかるというのです。神は今でも約束の実現を待ち望む彼らの神でい続けてくださるからです。

 天にあるものを熱望するという点では、わたしたちもまさに同じです。使徒パウロは「フィリピの信徒への手紙」の中で、「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)と述べています。わたしたちがこの地上では寄留の民であり、やがては本国である天に迎え入れられる存在であることを教えています。同じようにペトロもまたその手紙の中で「仮住まい」という表現を好んで使っています(1ペトロ1:1,17; 2:11)。天を離れてこの地上で仮住まいをしているというイメージです。

 わたしたちが迎え入れられる天の故郷は、いまこの目で確かめることはできません。だからこそ昔信仰に生きた人々と同じような信仰をもって見えない事実を確認することが大切なのです。

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