メッセージ: アブラハムとサラの信仰(ヘブライ11:8-12)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「ヘブライ人への手紙」の11章には信仰に生きた人々が紹介されています。それらの人々は、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰を抱いて生きた人々です。もちろん、そのような信仰を持つことができたのは、それらの人々に希望を与え、それを誠実に実現してくださる神がおられるからです。その大前提を抜きにして、信仰について語ることはできません。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章8節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
今回はアブラハムとサラの信仰が取り上げられます。この二人は夫妻として信仰に生きた人たちでした。その生涯は旧約聖書の「創世記」に記されています。この手紙で紹介されているのは、彼らの全生涯のほんの一部のエピソードです。そして、この夫妻の生き方が、どの面においても完璧であったわけではありません。人間としての弱さを身に負う者たちでした。そういう弱さの中で信仰に生きた人たちでした。
「ヘブライ人への手紙」が取り上げるアブラハムの信仰は、まず約束の土地ヘと移住するように召し出されたときのエピソードです。この話は創世記12章に記されています。創世記が記すこの時のアブラハムの話には、「ヘブライ人への手紙」が触れていないいくつかのポイントがあります。
例えば、アブラハムが召し出されたのは75歳の時でした。アブラハムの生涯はわたしたちのそれよりもはるかに長かったとはいえ、人生の半ばで、これまで住み慣れた土地を離れることは決して簡単な決断ではありませんでした。それに、結果として175歳まで生きたとはいえ、旅立つときに自分が何歳まで生きるか、アブラハムには知る由もありませんでした。
しかも移住するのは自分と妻の二人だけではありませんでした。甥のロトやハランでの生活で加わった人々も含めての大移動です。そこに家畜の群れも加わります。それだけの大所帯を連れての移動となると責任も重大です。
そういう要素に加えてこの手紙の著者が指摘しているのは、アブラハムにとって行き先についての知識がなかったという点です。神から命じられたのは「わたしが示す土地に行きなさい」という一言でした。もちろん、行く先の方角やその土地の名前は知らされたかもしれません。しかし、それらの情報は、人間的に考えれば何の安心の材料でもありません。この手紙がアブラハムは「行き先も知らずに出発した」と語っているのは、決して誇張した表現ではありません。それにもかかわらず、アブラハムはお命じになる神に信頼して旅立ちました。それはとりもなおさず、信仰によって神の命令に服従したからです。
神からの約束の地ではありましたが、他国に宿る寄留者のように生活しました。アブラハムにとって大切だったのは、それが現実に自分の手に入ったかどうかではなく、神がそれを約束してくださっているかどうかを信仰をもって受け止めることでした。
実際、アブラハムは自分の妻が亡くなったとき、その遺体を葬るための墓所すら所有していませんでした(創世記23章)。
このように寄留者として三代にわたって住み続けましたが、神の約束を信じて疑いませんでした。それは、アブラハムが目をとめていたのは、目の前に広がる現実ではなく、約束してくださった神に目を注いでいたからです。この神が約束してくださっているご計画の素晴らしさを、アブラハムは心に描き、その実現を待望していたからです。ですから、この手紙の著者はこう述べています。
「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」
アブラハムが信仰の目で見ていたのは、この地上の土地のことではありません。そのはるか先を望み見ていたのです。
アブラハムの妻サラもまた信仰の人でした。もちろんサラは最初から完全な信仰を持っている人ではありませんでした。自分たちに跡を受け継ぐ子供がいないため、最初は人間的な方法でそれを解決しようとしました。夫アブラハムに女奴隷のハガルをあてがい、ハガルによって子供を得ようと考えました。アブラハムもまた妻の提案を受け入れ、実際ハガルが身ごもると、アブラハムの家庭には不和が起こります。その解決もまた人間的な方法でした(創世記16章)。そういう意味では、これらの出来事にはアブラハム夫妻の弱さが表れています。
そののち神がイサク誕生の約束を告げられますが、子供を産める年齢をとっくに過ぎているサラはそのお告げを聞いて、不謹慎にも笑ってしまいます(創世記18章)。
こうして見てくると、サラが信仰の人だと言うには疑問が残るかもしれません。しかし、それにもかかわらずこの手紙の著者は「信仰によって」という言葉をサラに対しても用います。
11章11節に出て来る「子をもうける力」と言うギリシア語の単語は、通常は女性に関して使う言葉ではなく男性について使う言葉なので、ここでいう「信仰によって」というのは、サラについてではなくアブラハムについて言っているのだという解釈と翻訳の問題を指摘する意見もあります。
しかし、そうだとしても、アブラハムの信仰がサラに優っていたとは、創世記の記述から明白に読み取ることはできません。また、実際、サラの協力がなければアブラハム一人でイサクを設けることはできませんでした。この二人には信仰の紆余曲折はあったかもしれませんが、しかし、最終的には信仰に従って神の約束を受け入れ、その約束がイサクにあって成就しました。そればかりではありません、このことを通して、アブラハムの子孫が星のように、また海辺の砂のように増えて行くことができたのです。
新約聖書によれば、アブラハムの子孫は文字通り血のつながりのある子孫だけがアブラハムの子孫ではありません。アブラハムと同じ信仰を抱くもの、信仰によって義とされて生きる者は、皆、アブラハムの子孫なのです。
そういう意味で、アブラハムとサラの信仰は、わたしたちとも深くかかわっているのです。