聖書を開こう 2022年6月9日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  信仰とは(ヘブライ11:1-3)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「信仰とは何か」と問われたら、その定義は様々あるように思います。また、一言では説明が難しいようにも感じられます。

 たとえば、「あなたは何か信仰しているものがありますか」と尋ねられたとき、その場合の「信仰」とは、特定の宗教を信じているかどうか、ということが問題となっています。特定の宗教を信じていない人は、「わたしは特に信仰しているものがない」と答えるでしょう。しかし、特定の宗教を信じていないと答えた人の中にも、全くの無神論者もいれば、漠然と超自然的なものの存在を信じているという人もいます。漠然と神を信じていることを「信仰」と呼ぶのか呼ばないのか、「信仰とは何か」という問題と深くかかわってきます。あるいは、全くの無神論者であったとしても、信じるものが何もないというわけではありません。その中には自分自身を信じている人もいれば、科学こそが万能だと信じている人もいます。信じる対象が特定の宗教ではなく、自分であったり科学であったりしているだけで、それもある意味、「信仰」と呼べるような気もします。

 国語辞書で「信仰」という言葉を引くと、「神・仏など、ある神聖なものを(またはあるものを絶対視して)信じ、たっとぶこと」と定義されています。これは岩波国語辞典の定義ですが、この定義は宗教に限らず、特定の主義主張を絶対視していることも含んでいます。逆に漠然と神を信じているような状態は、尊んでいるわけではないですから、「信仰」からは除外されているということでしょうか。「尊ぶ」とは「重んじること」「尊重すること」ですから、少しでも神やその教えよりも自分自身を優先させるなら、信仰があるとはいえなくなってしまいそうです。

 では、キリスト教では「信仰」をどのように捉えられているのでしょうか。これにも様々な側面があって、一言ですべてを説明しきれないように思われます。キリスト教信仰の場合にば「神の存在」を信じるという面もありますが、ただ、神がいるかいないかの問題ではなく、その神が啓示して下さった事柄を真理であると確信し、受け入れることも信仰に含まれます。そういう意味では「知っている」という知的な要素が信仰には含まれています。何だか知らないけれども信じる、というのはキリスト教的な信仰ではありません。

 しかし、知識だけが信仰なのではなく、神に従うということも信仰の重要な要素です。しかもそれは不承不承の服従ではなく、心からの信頼によるものです。

 さらに言うと、その信仰は自分自身の内側から自然発生的に生じるのではなく、信仰自体が神から与えられる賜物であるというのが聖書の教えです(エフェソ2:8、1コリント12:3)。

 では、そうして与えられた信仰によってすべてが理解できるのかというと必ずしもそうではありません。合理的に理解できたことだけが信仰だとしてしまうと、信仰と人間の理解や理性とは、ほとんど同じものになってしまいます。信仰には一見合理的ではないように思われる事柄も受け入れる飛躍があることを否めません。

 さて、前置きが随分と長くなってしまいましたが、きょう取り上げようとしている個所にも、「信仰とは何か」が語られています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 11章1節〜3節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 きょうの個所では、「信仰とは何か」ということが取り上げられています。もちろん、「ヘブライ人ヘの手紙」の著者はここで信仰の完全な定義を披露しているわけではありません。直前の個所で「わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」と述べている通り、ここで問題となっている「信仰」は、それによって命を確保させるような信仰のことです。そして、その信仰をもって生きてきた旧約時代の人々を11章全体は取り上げていきます。

 では、そうした人々がもっていた命を確保させるような信仰の特徴とはどんなものだったのでしょう。この手紙の著者は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と簡潔に述べています。

 「望んでいる事柄」というのは、具体的にはこの手紙の最初の方に書かれていた神が約束された安息の実現のことです。それぞれが自分勝手に描いた希望のことを言っているのではありません。自分が勝手に思い描いたことを確実だと信じるのは、単なる妄想にすぎません。そうではなく、ここで問題になっているのは、神の約束に対する確信です。

 この手紙の著者は4章2節でこう書いていました。

 「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」

 ここで言う「聞いた言葉」とはやがて与えられる安息を約束した神の言葉です。せっかく約束の言葉を聴きながら、それを信仰によって受け止め、自分に対する言葉として結び付けることができなかったために、その神の約束は聞く者にとって何の役にも立たなかったのです。

 しかし、旧約聖書に登場するすべての人物がそうだったわけではありません。11章で具体的な人物をあげて説明しているとおり、信仰によって神の約束の言葉を確実なものとして受け止めた人たちもいました。信仰とは、まさに神の約束の言葉を自分に対する言葉として受け止めさせ、その内容を確かであると確信させる働きを持つものです。

 また、神の約束は、将来にかかわる約束であるために、その実現を現時点で見ることはできません。そういう意味では、目に見えない事柄をあたかも現時点で確実であると確認させるのも信仰の働きです。

 確かに客観的な根拠を求めることは大切なこともあります。しかし、そのことが神の約束を受け入れることを邪魔してしまうこともあるのです。あまりにも現状にとらわれすぎて、目に見える現状から、神の約束が実現する可能性を低く見積もりすぎてしまうからです。信仰というのは目に見える現状から神の約束の実現性を判断することではなく、今は目に見えない約束の実現を確信して、その視点から現在を考え、希望がないと思われる現実を乗り越える忍耐と力を与えるものです。これから取り上げようとしている信仰の人々は、そういう信仰をもって神の約束を受け入れ、彼らのおかれた時代を希望をもって生き抜いた人々でした。

 そもそも、約束をしてくださるお方は、天地万物をお造りになったお方です。創造主であるからこそ、世界を新たに創造し、救いをもたらすことができるお方です。しかし、神がこの世界を見えないものからお造りになったということ自体も、信仰によらなければ、受け入れることはできません。信仰だけが、誰がまことの創造者であり救い主であるか見極めさせ、そのお方の約束が確実であることを確信させるのです。

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