聖書を開こう 2022年6月2日(木)放送

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  忍耐の必要性(ヘブライ10:32-39)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教に対する迫害は、ローマ帝国時代や日本のキリシタン時代の話ではありません。実は20世紀以降、全世界でキリスト教信仰の故に迫害を受けた人の数は、それ以前の時代よりもはるかに多いと聞いたことがあります。現代の日本や先進国からすると考えられないような話です。

 今の日本では憲法によって人権が保証されているため、国家が直接宗教弾圧をすることはあり得ない話です。けれども、政教分離の解釈をあいまいにして、間接的に国家や地方自治体が個人の信教の自由を侵害しているということは大いにありうる話です。何よりも憲法によって保障された権利は、国民の「不断の努力によって」守られるものであって、それが自動的にいつまでも続くと錯覚してはなりません。

 ただ、それよりももっと日本人クリスチャンにとって生きづらいのは、宗教的風習や慣習が社会に深く根付いていることだと思います。自分信仰を貫き通そうとして、それらを拒絶すれば、地域社会はおろか、血縁関係からさえも疎外されてしまうこともあります。そのことが原因で洗礼を受けることを躊躇したり、キリスト教信仰に生き続けることに困難を感じてしまうことがこの日本ではなんと多いことでしょうか。

 そういう意味で、きょう取り上げようとしている個所は、権力者から直接生命や財産に関わる迫害を受けていない日本人クリスチャンにとっても、耳を傾けるに十分に値する教えです。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 10章32節〜39節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

 前回の学びでは、救い主イエス・キリストを一旦は信じて受け入れ、その後キリストを棄て去って離れていく罪が、どれほど重い刑罰に値するのか、厳しい言葉で述べられていました。

 そのことは、著者がこれまでに述べてきた新しい契約の恵みから考えれば、当然の結論で、決して厳しすぎるというものではありません。キリストだけが神に近づく道を切り開いた救い主なのですから、この方を置いてほかに救いがあると期待するなど、ありえない話です。

 ただ、この厳しい言葉を通してこの手紙の著者が願っていることは、この手紙の受取人たちが、どんなに困難な状況の中にあっても、最後までキリストに結びついて、約束のものを手に入れることです。

 そこで、この手紙の著者は「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。」と勧めています。

 「光に照らされ」という表現は、6章4節にも出てきた表現ですが、それは「キリストに対する信仰を与えられた」というのと同じ意味です。それ以上の特別な体験を意味しているわけではありません。パウロが回心したときに体験したような、文字通りの「天からの光」に照らされる経験を言っているわけではありません。

 要するに手紙の著者は、この手紙の受取人たちが、キリスト教を信じるようになった後に経験した苦しい戦いを耐え抜いてきた頃のことを思い出すようにと勧めています。

 ここで言う「苦しい戦い」が具体的にどの時代のどの地域で起こった迫害を指すのか、特定するのは困難であるかもしれません。ただ、次の節で述べられているとおり、その内容は、信仰のゆえに「あざけられ」「苦しめられ」「見せ物にされ」るような屈辱的な扱いを受けたということでした。本人が直接そのような扱いを受けていない場合でも、同じ仲間として扱われた体験の中で苦しみを共にした人たちでした。信仰のゆえに財産を奪われるという経験さえもした人たちでした。おそらくは、そのような仲間が投獄されたときには、危険を顧みず信仰の仲間を牢獄に訪ねていくこともしたことでしょう。

 ただここで大切なことは、単に大きな戦いを経験したということではなく、その戦いに屈してしまうことなく、忍耐をもって持ちこたえたということです。その最初の「忍耐」を思い出すようにと勧められています。

 確かに今のわたしたちの中で、信仰のゆえに財産を奪われるという経験をした人は少ないかもしれません。しかし、そういう経験をしたこの手紙の受け取り人たちでさえ、12章4節では「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」と言われているのですから、信仰の戦いにはさらに大きな戦いがあります。けれども、この手紙の著者が問題としているのは、どれだけ大きな戦いをしたかではなく、その一つ一つの戦いを忍耐強く戦い抜いたことこそ、思い出すべき大切なことなのです。

 信仰を持っているということを嘲笑われたり、クリスチャンであること自体、変わり者であるかのように扱われた経験なら、一度や二度はしたことがあるでしょう。そんな些細なことでも耐え忍んできたはずです。その忍耐が大切です。

 では、その忍耐はどこから来るのでしょうか。この手紙の著者はこう述べます。

 「自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、…喜んで耐え忍んだのです」

 信仰の確信の強さと忍耐とは切り離すことができません。確信がなければ忍耐することなどとてもできません。ですから、この手紙の著者は続けてこう述べています。

 「だから、自分の確信を捨ててはいけません。」

 確信が揺らぐとき、忍耐する力も失われていってしまいます。

 10章37節と38節は、「ハバクク書」からの引用です。この手紙の著者にとって、「ハバクク書」からの引用には大きな意味があります。というのは、「ハバクク書」は信仰者の叫びからはじまっているからです。社会に蔓延する暴虐と不法の中で正しく生きようとする信仰者の叫びです。

 そのハバククに対する神の答えは、「たとえ遅くなっても、待っておれ」(ハバクク2:3)という忍耐でした。

 「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない」と語られる主の言葉を信じる者が持つ忍耐です。このことを信じて忍耐する者が、その信仰によって生きることができるのです。

 この手紙の著者は、自分を含めてこの手紙を読んでいる読者たちが「ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者」であると確信しています。

 この地上では信仰の戦いは避けることができません。わたしたちもまた信仰によって命を確保する者となることを願ってやみません。

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