聖書を開こう 2022年5月26日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  神を恐れて生きる(ヘブライ10:26-31)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 洗礼を受けてクリスチャンとなった人が、しばしば直面する悩みは、自分は本当に救われているのだろうか、という悩みです。そう思うきっかけは、洗礼を受けても、相変わらず罪を犯してしまう自分に気が付いたときです。

 確かに洗礼を受ける前に犯した罪がキリストによって贖われ、赦されたという確信は持てても、洗礼を受けた後に犯した罪は、一体どうなるのだろうと、途端に自信を失ってしまうことは、誰にでも起こりがちです。まして、そのように確信が揺らいでいるときに、今日これから取り上げようとしている聖書の個所を何の予備知識もなく読むなら、恐ろしさのあまり絶望的になってしまうかもしれません。

 もちろん神に対して恐れを感じることは決して悪いことではありませんが、しかし、恐ろしさのあまり自暴自棄になってしまうとすれば、それはこの手紙の著者が意図していることではありません。

 聖書自身、キリストを信じ受け入れた者が、不注意から、あるいは弱さから、罪を犯してしまう可能性があることを想定しています。例えば、イエス・キリストは、悔いてはまた罪を犯す兄弟を、7の70倍までも赦すようにと命じています(マタイ18:22)。主の祈りの中でも「わたしたちの罪を赦してください」と繰り返し祈っています(ルカ11:4)。

 パウロもガラテヤの信徒ヘの手紙の中でこう勧めています。

 「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、”霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」(ガラテヤ6:1)

 洗礼を受けたからと言って、たちどころに罪を犯さない人間になるのではないことは、聖書自身が想定していることです。しかし、そのことは、キリストの救いの御業が不十分であったからではありません。キリストが十字架の上でご自身をただ一度だけ献げてくださった犠牲の故に、わたしたちの罪は、過去のものであれ、将来のものであれ、確実に赦されているのです。そして、わたしたちの内に与えられた聖霊によって、日々清められています。そうであるからこそ、些細な罪にも気が付くほどに研ぎ澄まされているのです。このことを念頭に置きながら、今日これから取り上げる箇所が何を語っているか、注意深く読む必要があります。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 10章26節〜31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と言い、また、「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。

 前回取り上げた個所では、わたしたちが確信する信仰について学びました。新しい契約に入れられた者たちには、「イエスの血によって聖所に入れる」という確かな信仰があるのだ、ということを学びました。そしてその確信を支える三つの根拠についても前回学びました。そして、この確信があるからこそ、互いに愛と善行に励むように心がけ、集会に集まって励まし合うことが勧められました。

 では、このような確信を与えられながら、その確信を根拠もろとも全否定したらどうなるでしょう。人はたとえイエスの血によっても神に近づくことはできないと、今までの確信を完全に否定したら、何が残るでしょう。イエス・キリストは神ヘの道を開くことに失敗し、そもそもイエス・キリストはわたしたちの大祭司でもなく、神の言うことは嘘と偽りだと本気で思い始めたら、どうなるでしょう。

 この手紙の著者が言う「わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば」という意味は、確実な真理に基づいて与えられたこの信仰の確信を、思いと言葉と行動によって、意図的に否定し続けることです。

 「故意に」あるいは「意図的に」というのは、不注意や弱さから罪を犯してしまうのとは明らかに違います。「し続ける」というのは、一時的偶発的な罪とは明らかに違います。また断続的に繰り返される罪とも異なります。

 冒頭でも述べた通り、不注意や弱さから罪を犯してしまうことは、聖書自身も想定していることです。悔いてはまた罪を犯してしまう弱さでさえ、たとえそれが7の70倍繰り返されるようなことであっても、赦しがあることを聖書が語っています。大切なことは、このような罪に対しても、キリストの十字架の贖いは十分であることを信じ続けて、何度でも悔い改めてキリストに寄りすがることです。

 そのような罪のために、自分の信仰の確信が揺らいでいるのだとすれば、もう一度、福音の真理が何を教えているかを学びなおせば済むことです。

 しかし、ここで問題にしている罪は、そういう罪とは明らかに異なる罪です。旧約の民がそうであったように、神の言葉を耳にしながら心をかたくなにして心を閉ざしてしまう罪です。神を偽り者として、神に聞き従わない生活を確信をもってし続けることです。

 この手紙の著者の言葉を借りれば、それは「神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者」(ヘブライ10:29)にほかなりません。そういう者には救いの道がなく、ただ神の裁きだけが残されているのは自明のことです。キリストの十字架以外に救いの道があるのであれば、話は別ですが、キリストだけが罪を完全に贖うことができる唯一のお方なのですから、この方を置いて他に救いの希望はありません。

 ここで問題になっているのは、このことを全く知らなかったという人のことではありません。一度は福音の真理に触れ、それを受け入れた人の話です。その人が福音から故意に離れるとき、神の裁きが容赦ないことをしかと知るべきです。その点で、この手紙の著者には妥協はありません。いえ、キリストだけが救いの根拠であることを信じているのですから、当然の結論です。

 では、キリスト教を棄ててしまった人には、再び救いのチャンスはないということでしょうか。この手紙の著者はそのことにははっきりとは触れていません。ただはっきり言えることは、その状態に意図的に確信をもって留まり続けるならば、それは自分から救いの道を閉ざしてしまっているということです。しかし、悔い改めて、再び福音の真理に立ち帰るなら、救いを妨げる理由はどこにもないはずです。「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしい」と心からそう思うのであれば、神が備えた救いの道に立ち帰ること以外に、心に平安を与えるものはありません。

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