聖書を開こう 2022年5月19日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  救いの確信に生きる(ヘブライ10:19-25)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 もし、自分が神の国には入れない理由を三つあげてみよ、と言われたら、きっとほとんどの人は、即座にその理由を三つあげることができるかもしれません。いえ、三つ挙げなくても、たった一つの理由だけでも自分は救われるはずはないと十分言い切ることができるかもしれません。

 逆に、それでも自分は救われる、神の国に入ることができると言い切れる理由を三つ挙げてみよ、と言われたらどうでしょう。きっと答えるのに戸惑ってしまうかもしれません。

 今でも思い出しますが、わたしが洗礼を受けるとき、洗礼を受けるための準備会をしていただきました。その準備会が終わって、いよいよわたしが本当にイエス・キリストを信じているか、洗礼を授けても大丈夫か、試問を受けたときのことでした。お世話になった宣教師の先生がこうわたしに尋ねました。

 「あなたは、洗礼を受けずにきょう死んでしまったとしたら、救われると思いますか?」

 そんなことを聴かれるとは思いもしませんでしたから、しどろもどろになってしまいました。そんなわたしに、その宣教師は教えてくださいました。

 「イエス・キリストを救い主として心から信じていれば大丈夫です。そのことを聴きたかったのです。」

 確かに、この信仰がない人に洗礼を授けても、自動的に信仰が芽生えてくるわけではありません。むしろ逆で、信仰があるからこそ洗礼を受ける意味があります。それ以来、他の人が洗礼を受けるときに、イエス・キリストへの信仰の大切さを繰り返し思い起こします。

 きょう取り上げる箇所には、この救いの確信が確かでゆるぎない根拠が列挙されています。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 10章19節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。

 今までこの手紙の著者は、古い契約のもとでの儀式の不完全さと、それに対する新しい契約のもとでのイエス・キリストによる救いの御業の完全さを十分に語って来ました。そこから導き出される結論は一つしかありません。この手紙の著者は少しもためらうことなく、こう述べます。

 「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。」

 この確信を支える根拠については、すでに十分に議論しつくされましたから、ここで詳細を繰り返す必要はありません。この手紙の著者は簡単に三つの根拠をあげます。

 一つは、イエス・キリストが「新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった」という事実があるからです。

 古い契約のもとでは、神のご臨在を象徴する至聖所には常に垂れ幕が垂れ下がり、罪人であるわたしたちとの間を隔てていました。ただ年に一度だけ贖罪の日に大祭司が贖いの犠牲を献げ、民を代表して至聖所に入ることはできましたが、毎年繰り返さなければならないということが、贖いの犠牲の不完全さを物語っていました。

 しかし、新しい契約のもとでは、イエス・キリストがご自身を犠牲として献げてくださいました。繰り返されることがない、唯一の犠牲です。こうして神のみもとに近づく新しい道が開かれたのですから、このキリストの犠牲の血のゆえに確信をもっていつでも神に近づくことができます。キリストを信じて従おうとする者には、道はすでに開かれているのです。

 神のみもとにいつでも近づくことができるという確信を支える二つ目の根拠は、「わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられる」からです。

 このお方は、前回学んだ通り、贖いの御業を成し遂げられて神の右に着座されています。そういう大祭司であるイエス・キリストを新しい契約の民はいただいているのです。だからこそ、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」と、手紙の著者は呼びかけています。

 古い契約のものとでは、もろもろの規定が定める手順を踏む必要がありましたが、キリストはそれらの規定が差し示していたものを完全に成就されたのですから、わたしたちに必要なのは、このことを信じる信頼と真心です。

 確信を支える三つ目の根拠は、約束してくださった神が真実なお方であるからです。

 わたしたちの確信が揺らぎ始めるとしたら、それはたいていの場合、神から目をそらして、自分の惨めさに目を注ぐときです。救いを約束してくださった神を忘れて、ふがいない自分にとらわれてしまうときです。そうであればこそ、神の真実さに信頼して、いっそう神により頼むことが大切です。ですから、この手紙の著者は読者たちに勧めます。

 「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」

 この手紙の著者は、自分の確信とそれを支える根拠を述べた後、さらに勧めの言葉を続けます。

 「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」

 信仰の確信とその根拠を述べた後で、勧めの言葉を続けるこの順序はとても大切です。互いに愛と善行に励むように心がけているから、神に近づく確信が持てるようになるのではありません。怠らずに集会を守ることが、神に近づく道を開くのでもありません。むしろその逆で、すでにその道が開かれているからこそ、互いに愛と善行に励むようにいっそう促されていくのです。神に近づく道が既に開かれ、大祭司イエス・キリストをいただいているからこそ、怠らずに集会を守り、互いに励ましあうことができるのです。

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