聖書を開こう 2022年5月5日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  実体を打ち建てるキリスト(ヘブライ10:5-10)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 宗教改革時代には、信仰教育のために様々な信仰問答書が作成されました。聖書の中心的な教えを問答の形式でまとめた書物です。その一つに『ハイデルベルク信仰問答』と呼ばれる問答書があります。この問答書は「あなたのただ一つの慰めは何か」という問いかけから始まります。ここで問われているのは、生きるにも死ぬにも励ましとなるような慰めです。そして、その答えは、わたしが、自分自身のものではなく、救い主イエス・キリストのものであることだと断言します。

 しかし、そういわれてピンとくる人はほとんどいないかもしれません。そう確信するためには知らなければならない聖書の教えがあるからです。まず、自分自身の罪とその悲惨さを知らなければなりません。いちど自分の罪とその悲惨さとを知った者にとって魂の平安となるような慰めは一つしかありません。それは、わたしがわたし自身のものではなく、救い主イエス・キリストのものであること、そして死さえもこの関係を断ち切ることができないということです。

 では、この救い主とはどんなお方なのか、どのようにしてわたしを罪と悲惨さから救ってくださるのか、聖書の教えに沿って問答は続きます。なぜ神は罪の償いを求めておられるのか、なぜ、わたしたち自身が償いを果たすことができないのか、その償いはなぜ動物の犠牲では不十分なのか、と問い続ける中で、まことの救い主がどのようなお方で、どのようにわたしたちを救ってくださるのかが明らかにされていきます。

 こうした問答書の展開は、聖書のあちこちの記された大切な教えにそってまとめられています。その中で「ヘブライ人への手紙」も頻繁に証拠聖句として引用されています。

 今学んでいる個所では特に古い契約のもとでの動物犠牲がなぜ不十分であるのか、そして、新しい契約のもとでは、それがどのように完全なものとなったのかが、扱われています。神はそのように完全な救い主を新しい契約のもとでお遣わしになったのです。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 10章5節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。

 前回の学びでは、古い契約のもとで行われていた祭儀が実体そのものではなく、実体にできる影のようなものであるということを学びました。確かに祭儀で献げられる動物犠牲は影のような存在にすぎませんでしたが、しかし、やがて現れる実体を指し示しているという点では決して無意味なものではありませんでした。

 きょう取り上げる個所では、動物の犠牲が指し示していた実体であるキリストが取り上げられます。

 ヘブライ人への手紙の著者は、このことを扱うにあたって詩編の言葉を引用します。引用されている個所は詩編40編7節から9節です。この引用されている個所には、神がいけにえや献げ物そのものを望んでおられないということが記されています。前回の学びでも指摘した通り、それは、旧約聖書の他の個所でも何度か出てくる教えです。神のみ旨に聴き従わない者たちが献げるいけにえに神は嫌気さえさしていると、預言者イザヤが指摘している通りです(イザヤ1:11-14)。実体のない影にすぎない動物の犠牲を聴き従う心を伴わないまま献げるのですから。神に受け入れないのはなおさらです。古い契約のもとで行われていた祭儀にはそういう意味でも限界がありました。

 しかし、ここに神の御心を行う一人の人物が登場します。このお方は新しい契約にふさわしいお方でした。そのお方は、神の御心を行い、神の義を完全に満たすことができるお方です。動物の犠牲は、わたしたちの身代わりのいけにえではありましたが、神の義を完全に満足させるものではありませんでした。

 しかし、登場する一人のお方は、十字架の死に至るまで従順なお方で、罪のための償いとして、ご自身をただ一度献げてくださいました。

 古い契約のもとで大祭司が民を代表して犠牲を献げたように、このお方も契約の民を代表して犠牲を献げてくださいました。ただ違うのは、このお方は神の御旨を完全に行うことができましたが、古い制度のもとにいた大祭司はそうではありませんでした。すでに学んだ通り、御心に完全に従いえない自分自身の罪のために供え物を必要としていました。

 しかし、イエス・キリストは罪のないお方でしたから、ご自身のための供え物を必要としていません。そればかりか、民の罪を償うためにご自身を犠牲の供え物としてとして献げることができました。それは二つの意味で完全な犠牲でした。一つは、キリストが御心を完全に行うことができるという意味で、犠牲の動物に求められる完全さよりもはるかに優った完全さを備えていました。第二にそれは、人間を代表しているという点で、完全な犠牲でした。本来動物は人間を代表することはできません。それはあくまでも古い契約のもとでの影のような制度であって、実際に動物の血が人間を贖っているわけではありませんでした。人間を代表し、十字架で罪の罰をお受けになり、神の義を完全に満たしてくださったという意味で、キリストの十字架は完全に人間を代表し身代わりの犠牲でした。

 そのためにこそキリストは来られたのですから、9節にある通り、最初のものはキリストの到来によって廃止されるのです。

 このことは神の救いのご計画の中に最初からあったことでした。新しいものが現れた以上、古いものが廃止されるのは当然です。

 例えていえば、古い契約のもので行われていたのは、映画の予告編のようなものです。予告編はやがて上映される映画を予告するものですから、見ていてわくわくするような内容です。しかし、どんなに予告編の出来が良くても、それだけを見て満足する人はいません。本編あっての予告編です。本編を見るからこそ、意味があるのです。そして、本編を見てしまえば、もう予告編を見ようとは思いません。

 キリストの内にこそ神の御心にかなった完全な救いがあるのですから、この救いを手に入れなければ意味がありません。完全な救いを得させてくださるようにと、キリストがわたしたちのところへやってきてくださったのです。

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