聖書を開こう 2022年1月27日(木)放送     聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ:  最後まで希望を(ヘブライ6:4-12)



 ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 聖書の中には、時々読んでいて怖くなる個所があります。きょう取り上げる個所も、自分は大丈夫だろうかと不安に感じてしまいそうな内容です。というのも、誰しも、一度は信仰のスランプを経験したことがあり、また、洗礼を受けてからも罪を犯してしまうことがあるからです。

 きょう取り上げようとしている個所は、過大に受け止めすぎると、立ち直ることができないほどの打撃を受けます。しかし、そうかといって軽く扱ってはならない個所であるように思います。聖書の中に語られる警告の言葉は、一方では真摯に受け止めなければなりません。けれども、他方では警告の主旨を見誤って、自分に絶望して一歩も進めなくなってしまうことは、手紙の著者の願いではありません。

 それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 6章4節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
 しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。

 きょう取り上げた個所のうち、9節以下を最初に取り上げた方が、手紙の著者が願っていることを素直に受け取ることができるように思います。9節以下で述べられていることはとてもシンプルです。

 第一に、この手紙の受取人たちは、少なくとも手紙の著者が知る限り、すでに堕落してしまった人たちではありません。むしろ、主にある兄弟姉妹に今もなお仕えて、キリスト教的愛の実践を行っている人たちです。そのことを神は決してお忘れにならないと励ましています。

 第二に、著者の願いは、この手紙の受取人たちが、最後まで希望を持ち続けて欲しいということです。そのために熱心であり続けてほしいと願っています。

 第三に、そのために大切なことは、信仰的に怠惰な者とならないことだと、手紙の著者は言います。そのことについては、旧約聖書に登場する信仰者たちの模範が豊富にあります。約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいと、願いを述べています。

 4節から8節にかけて述べられた警告の言葉も、結局のところ、それは、最後まで信仰にとどまって、約束のものを受け取って欲しいという著者の強い願いのあらわれであることがわかります。

 そのことを念頭に4節から8節を見ていきたいと思います。

 まずここで注意をしなければならないことが一つあります。それは、まことの信仰者であっても、救いから漏れるほどに堕落することがあり得るのか、という神学的な問題をここに持ち込まないということです。

 そもそも、「まことの信仰者」そのものが、人間の目にはわからないということです。概念としては理解できても、具体的にそれが誰であるのかは、神だけがご存じの領域です。

 少なくともこの個所では、まことの信仰者について議論しているわけではなく、まして、まことの信仰者が堕落するかどうかの議論をしているわけでもありません。

 確かにここで述べられている「一度光に照らされること」「天からの賜物を味わうこと」「聖霊にあずかるようになること」「神のすばらしい言葉と来るべき世の力を体験すること」、これらのことはまことの信仰者の特徴を述べているようにも思われます。

 しかし、ここで述べられている事柄の内容が具体的に何を指すかの議論は置いておくとしても、宗教的な体験として本人が自覚していることがポイントです。まことの信仰者であれ、そうでない信仰者であれ、一生涯自覚のないまま信仰者である人はいません。少なくともこの手紙の宛先人たちは、ここに挙げられる事柄のどの一つでも経験したことがないなどという人はいなかったはずです。

 例えば、「わたしは天からの賜物を味わう経験をしていないから、堕落してもまだ悔い改めのチャンスはある」などと主張するのであれば、そもそもその人の信仰者としての自覚が疑われてしまいます。

 さらに、この個所を理解する上で難しい問題は、「堕落した者の場合」とは具体的に何を指すのか、さらに「再び悔い改めに立ち帰らせることはできない」とはどういうことを言いたいのか、という問題です。ここでも、神の領域に踏み込んだ議論はすべきでないように思います。

 例えば、一度キリスト教を棄ててしまった人は、神でさえもう悔い改めに導くことはできないのか、それとも全知全能の神には不可能なことはないので、そのような人であっても悔い改めに導くことができるのか。これは興味ある問題かもしれません。しかし、この手紙の著者はそのことを議論したいわけではありません。

 少なくともこの手紙の著者の念頭にある具体的な例は、今までの学びで見てきた通り、旧約聖書の神の民、イスラエルの人たちの例でした。モーセを通して示された神の具体的な恵みを味わいながら、また神の威光を目の当たりにしながら、信仰に踏みとどまることをしなかった人たちです。残念ながら、彼らは心をかたくなにしたまま悔い改めることもなく、従って約束の地カナンに入ることも許されませんでした。この手紙の著者にとっても、読者にとってもそれがすべてです。これらの過去の出来事を教訓として、真摯に受け止めることこそ、この手紙の著者の願いです。

 もしこの手紙を読んで、キリスト教を信じた後にしてしまった数々の罪深い行いに良心の呵責を感じ、裁きに対する恐れから、キリストに救いを求めて寄り頼むのであれば、それはこの手紙で言う「堕落した者」とは違うように思います。この手紙の著者が念頭に置いている旧約聖書の具体的な例では、熟慮の末に神を見捨て、その後も神により頼もうともしない人たちのことです。

 もし、キリストを棄てて、キリスト以外に救いを求めるのであれば、当たり前のことですが、キリストの救いにあずかることはできません。それは自分で選び取った道です。この手紙の著者が言いたいことは、これ以上のことでも、これ以下のことでもありません。

 繰り返しになりますが、手紙の著者がこのことを述べる意図は、神を離れていってしまったイスラエルの民を断罪するためではありません。そうではなく、救いの約束にあずかっているこの手紙の読者たちが、その信仰にしっかりとどまって、約束されたものを受け継ぐ者となることです。

 自分を含め、今この手紙を読んでいる読者に対して、約束されたものを受け継ぐ者であり続けてほしいと、わたしも心からそう願います。

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