メッセージ: 成熟した信仰者への成長(ヘブライ5:11-6:3)
ご機嫌いかがですか。日本キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、日本キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会には「卒業」という概念がありません。「長年キリスト教を信じてきたので、そろそろ卒業したいと思います」などと考える人はいません。もし、「卒業したい」と言い張るのであれば、それは残念ながら「卒業」ではなく、キリスト教信仰を棄て去ることにほかなりません。
また、教会には「学年」という概念もありません。求道中の人も、信仰生活を何年も過ごしてきた人も、同じ礼拝にあずかります。もちろん、求道者向けの学び会があったり、学生や青年向けの集会があったり、様々な学びの機会が提供されていますから、教会員一人一人の成長に関心がないというわけではありません。
キリスト教会には学年も卒業もありませんが、信仰の成長やクリスチャンとしての成熟がむしろ期待されています。パウロの言葉を借りれば、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:13-14)。そういう意味で、すべてのクリスチャンは完成へと向う途上にあるということができますし、また、そのように成長し成熟するすることが期待されています。
きょう取り上げる箇所にも、クリスチャンとしての「成長」や「成熟」が話題になります。
それでは早速きょうの聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヘブライ人への手紙 5章11節〜6章3節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。
前回までの個所では、大祭司としてのキリストについて取り上げられてきました。とりわけ、「ヘブライ人への手紙」の読者たちにとってなじみ深い「アロン系の大祭司」と比較しながら、永遠の大祭司であるメルキゼデクによって、キリストの大祭司としての職務を説明してきました。
この教えは、その当時の読者にとっても決して初心者向けの話ではなかったと思われます。そのことを自覚していたこの手紙の著者は、いったん話題を変えてこう述べます。
「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。」
ここでは、二つのことが言われています。一つは、大祭司としてのキリストの話は、これで終わりではないということ。もう一つは、まだまだ話すべきことがあるにもかかわらず話を中断せざるを得ないのは、読者たちの「耳が鈍くなって」いるからだということです。決して教えるスキルが不足しているために、簡単に説明ができないのではありません。
では、この手紙の著者は、手紙の受取人たちの成熟度をどれくらいに見積もっていたのでしょうか。それは、固い食べ物を食べることができない乳幼児のようだと指摘されます。
もちろんこれは比ゆですが、それにしても随分と低く見積もられたように感じます。受け取った人にしてみれば、憤慨してしまいそうな表現です。おそらく、差出人と受取人の間には、信頼関係があったからこそ、こんなストレートな言葉にも憤慨してしまうことはなかったのでしょう。
この手紙の受取人たちは、乳幼児のようだとは言われますが、「今ではもう教師となっているはず」の人たちだという評価もあります。それはただ長年信仰生活を送ってきたというばかりではなく、能力的にも様々なことが理解できる人たちだということを物語っています。ただ問題なのは「耳が鈍くなっている」ということです。これは肉体的な聴力が衰えて、耳が遠くなっているという意味ではありません。むしろ、能力があるにもかかわらず、聴こうとしない怠惰な心のありようを言っているのでしょう。ちゃんと聴いて学んでいれば教師にでもなれるくらいの能力がありながら、それを使わない怠惰です。
しかし、裏を返せば、きちんと真面目に学びさえすれば、先に進める人たちだということです。ですから、手紙の著者は、決して匙を投げ出したりはしません。乳幼児だから、もう一回乳を飲ませようとはしません。むしろ、「基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」と励まします。
同じような状況にコリントの教会で直面したパウロは、コリントの信徒たちにこう書き送りました。
「兄弟たち、わたしはあなたがたには、…乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。」
今も乳飲み子のようなコリントの教会の人たちへの対応と、この「ヘブライ人ヘの手紙」の読者の状況は明らかに違っています。乳飲み子だとは言われながらも、実際にはもう基本的な教えを学び直す必要のない人たちです。
しかも、「ヘブライ人の手紙」の著者は、「わたしたちは…成熟を目指して進みましょう」と述べて、成熟を目指して進むべきなのは、自分も含めてそうなのだと述べています。ここにこの手紙の著者の謙虚さを見て取ることができます。手紙を書いて教えることができる立場にありながら、決して自分を完成したクリスチャンだとは考えていません。各人、今到達しているところには差があるとしても、それでも主の前に成熟することを願う心を持っています。
では、「基本的な学び」とは具体的には何を指しているのでしょうか。「死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教え」と六つの項目をあげています。ただ、項目が挙げられているだけで、残念ながらその具体的な内容についてまでは触れられていません。ここに挙げらていることは、必ずしもキリスト教信仰に限定されているとは限りません。ユダヤ教の学びにも、共通する事柄です。たとえば、「一つの洗礼」というのであれば、キリスト教に限られますが、「種々の洗礼」あるいは「種々の洗い」となれば、ユダヤ教の教えを指しているようにも聞こえます。「神への信仰」と言わずに「キリストヘの信仰」といえば、キリスト教に限られますが、「神ヘの信仰」といえばユダヤ教でも神への信仰は大切にされてきました。
ですから、ここで言われていることは、手紙の受取人たちが、ユダヤ教の基本的な教えからさらに進んで、キリスト教独自の教えの中で成熟することを望んでいたとも考えられます。もちろん、そうではなく、その当時、キリスト教の洗礼を受けるときに学んだ六つの基本的な教えであったのかもしれません。どちらにも解釈できますが、大切なポイントは、成熟を目指して歩み続けることです。そのことこそ、手紙の著者の願いであると同時に、今を生きる私たちにも期待されていることです。