【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
主イエス・キリストが弟子たちに教えてくださった祈りに、「主の祈り」と呼ばれる短い祈りがあります。その祈りの言葉は、こう結ばれます。「国と力と栄とは、かぎりなく汝のものなればなり。アーメン」
この結びの部分は、厳密には、イエス・キリストご自身がお語りになった言葉ではありませんが、教会では、古くからこの結びの言葉をつけて祈っています。というのは、このような賛美と頌栄をもって祈りを結ぶことは、ユダヤ教の祈りの伝統の中にすでにあったからです。
王国と力と栄光とは神のものである、とするこの祈りの結びの言葉には、祈りが聞き上げられることへの確信がこめられています。王国と力が神のものである、という信仰は、言い換えれば、神が万物を支配する力を持った王であることを言い表しています。この祈りが聞き上げられるその根拠は、人間の側の熱心さにあるのではありません。王である神が、すべてを治め、御心のままに統治してくださっているから、祈りもまた、このお方によって実現へと向かうのです。すべては神の御手の中にあると信じるからこそ、安心して祈ることができるのです。
また、この祈りの結びの言葉は、神に栄光を帰しています。主の祈りの後半の半分は、人間の生活にかかわる願いですが、その願いが叶えられるとき、栄光をお受けになるのは神ご自身です。しかし、人はしばしば、自分の願望を祈り、それが実現することだけを願います。もはや祈りの中で、神は脇役になり下がり、神は、自動販売機のように要求されたものを差し出すだけの存在になってしまっています。
それに対して、この主の祈りが願うことは、神の栄光が明らかになることです。もし、そうであるとするなら、祈ることに意味がないように思われるかもしれません。すべてが神の御心のままになされ、すべてが神の栄光のためだとすれば、人間の思いなど、神には届かないと感じてしまうでしょう。
しかし、そうではありません。祈ることで、私たち自身が神の御心を求めるようにと変えられ、神の栄光を第一とする生き方に変えられていくからです。そうなることで、私たちが、いっそう神に近づくものとされていくのです。それは、決して意味のないことではありません。
私の王が誰であるのか、ほんとうに力を持ったお方がどなたであるのか、どこに栄光が帰されるべきなのか、そのことを知るときに、祈りの内容も、祈ったあとの確信も、おのずと変えられていくのです。
最後に、この祈りは、「アーメン」というヘブライ語の言葉で終わります。その意味は、「まことに」とか「確かに」ということです。それは、祈りを聞いてくださっておられる神が、真実なお方であることと結びついています。真実な神に祈るとき、その祈りは、既に神に聞き上げられているのです。