【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
主イエス・キリストが弟子たちに教えてくださった祈りに、「主の祈り」と呼ばれる短い祈りがあります。その祈りの中に、「われらの罪をも赦したまえ」という言葉が出てきます。それも、「ただ赦してください」と願うのではなく、「自分に対して罪を犯した者たちを私たちが赦したように、私たちの罪をも赦してください」と祈るように勧められています。
この祈りの言葉を理解するためには、私たち人間は神の御前に罪びとである、という大きな前提に心をとめる必要があります。罪が赦されなければ、人間は、立ちゆくことのできない存在であることを厳粛に受けとめる必要があるのです。
聖書が言う罪とは、具体的には、神を愛することよりも、自分の都合を優先させ、人を愛するよりも、自分の利益を第一とする生き方です。もし、自分の良心に素直になって自分自身を顧みるなら、誰しも思い当たることがあるでしょう。ただ、そう認めたとしても、多かれ少なかれ、みんながそうなのだから、それをいちいち罪だと断罪されることを好まないのが、私たち人間です。少なくとも、いつも自己本位な生き方をしている訳ではないので、ちょっとぐらいは大目に見てほしいと思ってしまうのが人間です。確かに、自分の罪に四六時中向き合っていたら、それこそ気がめいってしまいます。
しかし、自分に対してはそれぐらい緩く考えていたとしても、これが自分に向けられた罪となると、容易に赦せなくなるのが人間です。罪を犯した張本人が、「みんなも少なからず犯す過ちだから、目くじらを立てないで、それぐらい赦してくれ」などと言おうものなら、その人を赦すどころか、怒りさえこみあげてきてしまいます。
この祈りが、単に「我らの罪をも赦したまえ」と祈らずに、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」と祈ることで、自分自分も、実は、赦しを必要としている一人であることに気が付くようにと促されているのです。そしてまた、赦しを必要としている者でありながら、他人を赦すことができない矛盾を抱えた存在であることに、気が付かされるのです。
もちろん、罪を赦すとは、罪を是認し、罪を仕方のないこととして肯定することではありません。罪を赦すとは、罪そのものを憎みつつも、その罪を犯してしまった人の弱さに同情し、自分のことのように、その人を受け入れることです。
「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈るとき、私たちが、まさに罪の中に生きていること、私たちもまた、赦しを必要としていること、しかし、それにもかかわらず、他人を赦すことができない者であること、それらのことに、気が付かされるのです。
そう気づいて、神の御前にへりくだって罪の赦しを求めるときに、実は、神は既にイエス・キリストを通して、私たちを憐れみ、罪を赦してくださっている恵みに目を開かれるのです。そのとき、ようやく他人の罪を赦す思いが、私たちの心にも芽生えてくるようになるのです。そして実際に、他者の罪を赦し、その人を受け入れるときに、イエス・キリストを通して示された神の愛の大きさを、改めて味わうものとされるのです。