【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。高知県香美市土佐山田町で牧師をしています、山田教会の高内信嗣です。
この前、棚を整理していましたら、過去にいただいた多くの手紙や葉書が出てきました。友人からの大切なメッセージカードや、結婚する前に妻からもらった手紙、年賀状の一言コメントなど、いろいろありました。その中に、使用している携帯会社の年賀状が紛れていました。すぐに、「あぁ、捨て忘れたのか」と思いました。このような大衆用に記されたセールス葉書は、すぐに処分してしまうからです。なぜ処分してしまうのか、冷静になって考えますと、それは、自分に語りかけているように思えないからです。
過去の大切な手紙類は、処分できません。それは、自分に語りかけてくれている友情や愛情がこもった大切なものだからです。文字は不思議です。セールス葉書のような、自分に全く響かない文字の羅列と受け止めることもあれば、大事な手紙のように、まるで文字が浮き出てきて、自分自身に語りかけられるようなものもあります。
宗教改革者マルティン・ルターは、新約聖書を、母国語であるドイツ語へ翻訳したことで知られています。16世紀初頭の教会では、礼拝の時間に、ラテン語で聖書朗読がなされ、民衆は、その言葉をただ呪文のように聞くことしかできませんでした。ルターは、母国語であるドイツ語で、ドイツの人々に、聖書の言葉を届けたいという切実な思いによって、新約聖書を母国語に翻訳したのです。初版の部数は、2000から3000部と言われています。当時、グーテンベルクが考案した活版印刷技術によって、瞬く間に、ルターの翻訳聖書が印刷され、ドイツ中に広がっていきました。
この日本でも、今、聖書の言葉が日本語で翻訳され、大きな書店やキリスト教書店で、すぐに購入することができます。それは、多くの人が聖書を読むことができるためです。聖書は、分厚い書物です。旧約・新約を合わせると2000ページもあります。難しいと思える箇所もあります。ただ文字の羅列のように見えてくる時があります。たしかに聖書も、多くの人のために、膨大な数が印刷されていて、無料で配られる時もあります。では、大衆用に記されたセールス葉書と同じなのでしょうか。
聖書の中で、エチオピアの女王の全財産を管理していた人物が出てきます。彼は、エルサレムからエチオピアに帰る途中、馬車に乗りながら、旧約聖書にあるイザヤ書の書物を朗読していました。その声を聞いた、フィリポというクリスチャンは、彼の下に近づき、読んでいる内容が分かるか、と尋ねました。すると、彼は、手引きしてくれる人がいないと分からない、と答えました。エチオピアの人は、熱心にイザヤ書を読んでいましたが、書いてあることを理解することはできなかったのです。
そこで、フィリポは、そのイザヤ書から、十字架で私たちのために苦しみを受けて下さったイエス・キリストについて説明しました。そして、エチオピアの人は、洗礼を受け、喜びにあふれてエチオピアに帰っていったのです。分からなかった聖書の言葉が、自分自身に語りかけられている愛のメッセージだと悟り、喜びにあふれたのです。
聖書は、時に、文字の羅列のように思えてくることがあります。先ほどのエチオピア人のように、内容が分からないということもあるでしょう。ですが、イエス・キリストを信じた人たちは、不思議な体験をします。文字で書かれた言葉が、生きた神の言葉として、自分自身に語りかけられるという体験です。
聖書は、単なる記録や規則集ではありません。あなたに語りかけている神の愛のメッセージです。ルターが聖書を翻訳したのは、その愛のメッセージを人々に届けたかったからです。フィリポがエチオピアの人にイザヤ書を丁寧に解説したのは、そこに書かれている愛の言葉を届けたかったからです。是非、聖書を手にとってみて、開いてみてください。神様はあなたに、愛のメッセージを語りかけておられます。