キリストへの時間 2022年7月24日(日)放送  キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

高内信嗣(山田教会牧師)

高内信嗣(山田教会牧師)

メッセージ: 梅は酸い酸い十三年

【高知放送】
     

【南海放送】
     

 おはようございます。高知県香美市土佐山田町で牧師をしています、山田教会の高内信嗣です。
 私が働いている山田教会には、梅の木が生えています。教会員の方いわく、勝手に生えてきたとのことです。おそらく、土に埋めた生ごみの中に、梅の種が入っていたようです。そして今年の5月、初めて、梅の実が実りました。

 昨年まで花すらも咲かなかったのに、今年は綺麗な梅の花が咲き、立派な実が実りました。教会員の方は、梅の実を見て、私に、「桃栗三年柿八年と言いますもんね。」と話しかけてこられました。私は、「あれ?おかしいな」と思いました。「桃栗三年柿八年」の中に、梅はありません。そのご発言が気になって、調べてみましたら、私は全く知らなかったのですが、桃栗三年柿八年ということわざには、続きがありました。地域によって異なり、年数も変わるそうですが、代表的なものの一つに、このような続きがあります。「桃栗三年柿八年、梅は酸い酸い十三年、梨はゆるゆる十五年、柚子の大馬鹿十八年、みかんのマヌケは二十年」。

 なるほど、教会員の方がおっしゃっていたことは、「梅は酸い酸い十三年」ということだったのだと気づきました。後に続く植物ほど、果実の収穫に時間がかかるものとなっています。私が働いています山田教会は、会堂を建て替えて10年が経ちました。おそらく、梅の種が紛れ込んだのは、その時期だと思います。13年とまでは行きませんが、10年という歳月をかけて、梅の木は、立派な実を結びました。「桃栗三年柿八年」ということわざは、単に、実をつける年月を表わしているだけでなく、何を身に着けるにしても、長い年月がかかるという意味を持っています。目に見える結果がなくても、試練があったとしても、実を結んでいく。この言葉は、そのような理解によって人々を励ましてきました。

 このことに関連して、今日、目を向けたい聖書の御言葉があります。ローマの信徒への手紙5章3節からの御言葉です。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

 この言葉は、パウロという人物の言葉です。パウロは、「苦難を誇る」と言いました。自分が苦境の中にあることを自慢する人はたまにいますが、苦難そのものを誇る人は、通常いないと思います。パウロは、なぜ苦難を誇るのかと言いますと、それは、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むからだ、と説明しています。

 「練達」という言葉は、聞きなれない言葉ですが、スポーツや楽器をイメージしていただいたら分かりやすいかもしれません。最初は上手くいきません。でも、練習を重ねていくうちに安定していく。それが、練達という意味です。苦難を忍耐していくというプロセスの中で、やがて磨かれていき、安定していく。そして、最終的に「希望」が実を結ぶとパウロは語ります。

 ですが、これだけ聞くと、私たちが我慢し続けなければならないという根性論に聞こえるかもしれません。だからこそ、パウロの続く言葉に注目することが大事です。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)

 「神の愛が私たちに注がれている。」それが苦難であったとしても、希望が生み出されるという根拠です。その愛のしるしが、イエス・キリストです。イエス様は、私たちを救い出すために十字架で命を捨てられました。その究極の愛が、私たちに注がれています。

 梅の木は、寒い冬、暑い夏を何年も越しながら、豊かな実を結びました。あなたが今、苦難の中にあったとしても、イエス様の愛が注がれている限り、神に決して裏切られることはありません。神による希望は、必ず実を結びます。



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