【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。高知県香美市土佐山田町で牧師をしています、山田教会の高内信嗣です。
「ジャンク・アート」という芸術分野は、ご存じでしょうか。「ジャンク」とは、ガラクタ・屑という意味です。ジャンク・アートとは、廃棄物やガラクタを組み合わせて制作する芸術作品のことです。1950年代後半から、ヨーロッパで、廃棄物のかけらを寄せ集めた作品を作る美術家が現われ、急速に広がったと言われています。
有名な動画サイトで半年ほど前、先進国が捨てた電子ごみを使って、アートを作成している芸術家の方が紹介されていました。その方は、ガーナのスラム街を訪れた時、先進国が捨てた何万トンという量の大量の電子ごみが、鎮座していた光景を目の当たりにしたそうです。住民は、電子機器のプラスチックを燃やし、金属を取り出して、1日500円ほどの賃金を得ているとのことです。しかし、廃材には、有害物質も含まれているので、若くして命を落とす人が後を絶たないという現実があるのです。
その美術家の方は、そういった社会問題に対するメッセージを込めて、電子ごみを用いてアートを作成する活動を始めました。世の現実に目を向けていくことの大切さ。そのことを改めて教えられます。そして同時に、私は、アートの素晴らしさに感動しました。捨てられた電子ゴミから、一つの作品が造り出されるのです。捨てられたものに、命がもたらされる。再生アーティストの技術に驚きを隠せません。
さて、聖書には、このような言葉があります。「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。」(ローマ9:21)焼き物を焼く人が、その器をどのように用いるか。その権限があるということです。貴いことに用いられる場合もあれば、貴くないことに用いる場合もあるということです。
私たちの存在は神の作品である、と聖書は教えます。焼き物師である神は、土の器である私たちをどのように用いるのでしょうか。自分は貴くない存在だ、私は、いつもそのように思っていました。時に、「ありのままの自分を好きになろう」という言葉が語られることがありますが、冷静に考えると、「ありのままの自分」は、自分でも嫌になるような汚れた自分です。罪深い姿です。自分が、捨てられるガラクタのように思える時があります。事実、聖書は、人間を「罪人」と語っています。私たちは、神様に捨てられても、何の文句も言えません。
ですが、先ほどの聖書の言葉の続きには、驚くべきことが書かれています。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」(ローマ9:22-23)
神は、人間を捨ててもいい権限を持っていました。でも、そうはされなかった。滅びることになっていた器を、それでも愛し、憐れんで、栄光を与えたということです。自分が役に立たないと思っているところも、嫌いなところも。それだけでなく、あなた自身を、神は愛し、用いてくださるということです。神は、究極の再生アーティストです。私たちは、ジャンク・アートです。価値がないと思っている部分、コンプレックスのある部分にも、そして、私たち自身にも、価値がある。それが、聖書の理解です。
自分の弱さを覚えて当然です。ですが、簡単に、自分は価値がない、と切り捨ててはいけないのだと思います。そこに、無限の価値があるのです。イエス・キリストの血によって救われた器を、どうして、価値がないと言えるでしょうか。あなたを愛してくださる神のまなざしに、今日、目を向けてみませんか。主のあたたかなまなざしが、あなたに注がれています。