【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。高知県芸陽教会の大宮季三です。
先日、「何者」(朝井リョウ著)という小説を読みました。現代の大学生の就職活動をテーマとしたストーリーで、映画化もされたヒット作品です。登場人物たちは、タイトルの通り、就職活動を通して、自分が「何者」であるかを問われます。
多くの場合、就職活動は、いくつもの審査を通過する必要があります。履歴書やエントリーシートと呼ばれる書類審査や、一般常識を問う筆記試験、自己PRなどを含めた面接やグループディスカッション。それらを通過して、ようやく内定を得ることになります。そこでは、自分が生きてきた約20年で培ったあらゆるものを総動員して、使える武器は何でも使うことが求められます。学歴はもちろん、語学の能力、クラブやサークルでの経験、留学経験、アルバイトやボランティアの経験、運転免許その他の資格など、良いことをすべて用いて表現することが、就職活動の成功と繋がっています。
ですから、クラブ活動で補欠だった人が「レギュラーだった」ことにしたり、外国に2、3カ所旅行に行った人が「世界中を旅しました」というような、ちょっとした訂正は珍しくありません。「自分はこういう者だ!」と、まだ社会にも出ていない20歳過ぎの若者が、胸を張って言えるわけはありません。もし言えたとしても、それは独りよがりの答えである可能性が高いのではないかと思います。この小説では、そのような「何者でもない」大学生が、「何者でもない」自分に気づいた上で、どのようにこの社会の現実に向き合っていくかが問われます。
私は、この小説を読んで、牧師になる前の自分の経験を思い出しました。それは、転職の経験です。大学を卒業して就職した仕事を辞め、転職活動をする時、改めて、自分が履歴書に書けるようなものは何もないことに気づきました。普通運転免許以外、私には履歴書に書ける資格も能力も経験もありません。大学を卒業する時からもちろんそうだったのですが、大学を卒業する時には、「新卒」という枠組みで多くの就職受け入れ先がありました。ですが、その「新卒」という肩書きを失った自分は、改めて「何者でもないんだ」という事実に向き合わされました。
ところで、聖書は、人間が「神の子」として人生を歩むことへと導いています。神の愛を受けて、神の子とされる。「あなたは何者か?」と問われた時に、「自分は世界を造られた真の神様の子どもだ!」と答えることができる。それが、クリスチャンです。
私たちは通常、自分が「何者か」と考える時の指標は、次のようなものです。一つ目は、自分がどういう経験をしてきたかなどの「自分が行ったこと」です。二つ目は、自分がどう思われているか、どれほどの人に慕われているか、どれほどの友人がいるかなどの「他人からの評価」です。三つ目は、自分の財産や名誉、権力などの「所有しているもの」です。「自分が行ったこと」、「他人からの評価」、「所有しているもの」、私たちは、自分が何者かと考える時、これら三つのものに束縛されています。ですが、そうであれば、結論は非常にシンプルです。それらは死と共にすべて無くなります。
神は、ご自分の独り子、イエス・キリストを信じる者を「神の子」としてくださいます。それは、私が何を行うとか、他人にどう評価されているとか、何を所有しているか、ということと全く関係ありません。しかも、たとえ死んだとしても、その身分は永遠に失われることはありません。
教会は、すでに神の子としての人生を歩んでいる人たちが集まっています。「私は何者なのか。」その問いに「自分は神の子だ」と答えることのできる人生へと、教会は招いています。