【高知放送】
【南海放送】
おはようございます。高知県芸陽教会の大宮季三です。
先日、ある有名人の座右の銘を聞き、とても感銘を受けました。それが、「不自然体」という言葉です。自然体という言葉に対して、「思っている感情をそのまま出すのはプロではない!」「どれだけしんどくても、テレビに出ればしんどい姿を出さないことが大切だ」、と言うのです。
これは、私たちの生活にも当てはまるのではないでしょうか。休み明けの月曜日の朝は、「眠い!」「しんどい!」のが自然な感情です。ですが「それを出すのが自然体だ!」ということをモットーにしているスーパーがあれば、どうでしょうか。「眠い!」「しんどい!」と皆が言い合い、そのままお客さんの前に出るようなスーパーには、行きたいとは思いません。そのように考えると、私たちはほとんどの場合、「自然体」であることよりも、多くの場合「不自然体」で生きることが求められているのではないかと思います。
ところで、聖書には、一見、非常に不自然体を求めているような言葉があります。それが「いつも喜んでいなさい」(1テサロニケ5:16)という言葉です。この言葉は、クリスチャンの中でも、非常にポピュラーな言葉の一つです。しかし、私たちの身の回りには、いつもいつも喜びをもたらすようなことが転がっているわけではありません。むしろ、苦しいことや悲しいこと、痛みを伴うことの方が多くあります。苦しむことや悲しむこと、痛みを感じることこそが自然体であり、喜ぶことは、とても不自然体であるように感じます。
ですが、「いつも喜んでいなさい」と記したパウロという伝道者の頭の中は、どうもそうではありません。本当は喜べない状況なのに、とりつくろって、やせがまんをして、「喜べ」と言っているわけではありません。彼は、「喜びの根拠」を示しています。それが、イエス・キリストによる救いです。イエス・キリストを自分の救い主として受け入れる者は、「目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになる」(1テサロニケ5:10)。「主と共に生きる」「神と共に生きる」、それが完全に現されるようになると言います。
人間は、神に造られました。だからこそ、神と離れたところには、安らぎも喜びも見出すことができません。神と共にある命こそが、本来の命です。神の独り子イエス・キリストと共に、永遠に生きることができる、将来におけるその日を見据えるように、とパウロは言います。それが、完全に現されるのは将来のことですが、イエス・キリストを信じる者は、もうこの地上における「今」から、イエス・キリストに結ばれている。これこそが本当の事実であり、パウロはそれを見据えて、「喜びなさい」と語りかけています。不自然な喜びではなく、むしろ、本当の真実を見れば湧き上がる、自然な喜びに生きるようにと勧めています。
この世の現実は、「喜べない」ことだらけです。喜びがあったとしても、それを覆すような事がどんどん起きます。しかし、キリストを救い主として受け入れる者に差し出されている「神と共に生きる」、その喜びに溢れる命は、何があっても覆されない永遠の真実です。キリストは、喜びに溢れる命へと、私たちを今日も招いておられます。