キリストへの時間 2022年1月23日(日)放送  キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

申成日(広島教会牧師)

申成日(広島教会牧師)

メッセージ: イエスのたとえ話8「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」

【高知放送】
     

【南海放送】
     

 おはようございます。広島教会の申成日(シン ソンイル)です。爽やかな朝を迎えておられますか。日曜日の朝、このようにラジオのキリストへの時間と始められること、とても忠実な一日になるかと思います。この1か月、聖書に記されているイエスのたとえ話を見ていますが、今日はその四つ目です(ルカ18:9-14参照)。

 二人の人が祈るために神殿に上っていきました。一人は、「ファリサイ派」というのは、ユダヤ人の一派で、最も敬虔に聖書の教えを良く守りながら生活する人々です。それに対してもう一人は、「徴税人」と言われています。当時、イスラエルはローマ帝国の支配の下にありました。徴税人は、ユダヤ人の中でローマ政府から雇われた人で、ユダヤ人たちに税金を取り立ててそれをローマ政府に納める役割を行った人々です。しかし、徴税人の多くは、正しく働いたのではなく、必要以上の税金を取り立てて、その差額を自分の収入とした人が多く、ユダヤ人の中では罪人の一人として扱われていました。

 最も正しく敬虔に生きる人と、罪人と呼ばれた人が、同時に神殿に上って祈ったのです。そして、たとえ話には、その二人の祈る様子と祈る内容が記されています。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」

 一方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言いました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」

 イエスはこの二人の話をした後に、次のように語りました。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 最後に、主イエスがこの二人をこのように評価したのはなぜでしょうか。ファリサイ派の人の祈りの特徴は、「心の中で祈った」という祈りの姿勢です。これは「神様に祈る」というよりも、「自分に向かって」「自分に聞かせる」祈りです。つまり、自己満足の祈りです。その内容は、他の人と比較することによって自分の行いを褒める祈りでした。それに対して、徴税人の祈りの姿勢は、いかにも神の前で自分が罪深く恥ずかしい者であるかのような姿勢で、天を見上げることさえできません。またその祈りの内容は、ただ自分の罪深さを認め、神様の憐れみを求める祈りでした。

 聖書には、「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10参照)と言うほど、すべての人が神様の前に罪人であることを語っています。神様から見れば、ファリサイ派の人も、徴税人の人も罪人です。しかし、義とされたのはファリサイ派の人ではなく徴税人であると、イエスが言ったのは、徴税人が自分の罪を認め、悔い改めて神の赦しと憐れみを求めたからです。主イエスは、このたとえ話を通して、神の救いに与かることのできる人は、自分の罪深さを知り、それを認め、悔い改めて、神の憐れみを求める人であることを語りたかったのです。



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