キリストへの時間 2022年1月2日(日)放送

申成日(広島教会牧師)

申成日(広島教会牧師)

メッセージ: イエスのたとえ話5「放蕩息子のたとえ」

【高知放送】
     

【南海放送】
     

 おはようございます。広島教会で牧師をしております申成日(シン ソンイル)です。新しい年が明けました。この2年間わたしたちは本当に予想もしたことのない時を過ごしました。この年は、それらの感染病と別れを告げて正常に日常生活に戻ることを切に願います。

 さて、昨年からわたしの時間は、聖書に記されているイエスのたとえ話を皆さんに紹介しています。今回も、この1か月間5回にわたって、そのたとえ話を紹介したいと思います。まず、今日は「放蕩息子のたとえ話」です(ルカ15:11-32参照)。

 ある人に二人の息子がいました。ある日、弟の方が父親に「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください。」と言ってきました。「頂くことになっている財産」というのは、遺産のことですが、それは父親が亡くなってから頂けるものです。仮に前もって分配してもらったとしても、父親が生きている間には勝手に使うことができません。しかし、この弟は父親から頂いた財産を何日も経たないうちにすべてお金に換えて、旅に出ました。彼は旅先で放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いし、何もかも使い果たした時、その地方に酷い飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めました。

 何とか空腹を満たそうとして、豚の世話をしながら、豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったのですが、食べ物をくれる人はだれもいませんでした。すると、彼は自分の家のことを思い出しました。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。」と、そう決心して、彼は、家に戻ることにしました。

 さて、家の方では父親が毎日のようにこの弟息子を待っていたのです。遠い所から誰か歩いて来る様子を見て、父親はすぐ家出をした息子であることに気付き、走り寄って抱きしめ、息子のために宴会を催しました。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」と父親は思ったのです。

 ところで、畑の仕事から帰って来た兄の方は、これがあまり面白くありません。彼は事情を聴いて怒って家に入ろうとしませんでしたので、父親が外に出て彼をなだめました。兄は言います。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊1匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上(しんしょう)を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」

 すると父親は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」

 話はここで終わりです。何だか、どこの家にもあるような話ですね。ところが、皆さん、放蕩息子は誰だと思いますか。普通は、弟だと思うでしょうが、よく考えると、兄の方も放蕩息子の一人だと思います。なぜならば、兄の方も全く父親の心を理解してないからです。

 しかし、この話の主人公は二人の息子ではありません。実は、その父親です。財産を放蕩の限り使い果たして帰って来る息子を喜んで受け入れる父親、ねたみと不公平だと思い、怒っている兄の方をなだめる父親、この父親こそ、イエスが語ろうとする人物でした。そして、この父親こそ、愛に満たされた神様であることを、イエスは語ろうとしておられたのです。

 神様は、わたしのような、あなたのような放蕩息子をいつも待っておられ、また赦してくださり、受け入れてくださいます。その方に人生のすべてを委ねてみませんか。



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