おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
聖書の中には、「生ける水」という言葉が出てきます。もともとは、湧き水や流れている新鮮な水を指す言葉でした。そうした水を、水溜りに溜まった澱んだ水に対して、「生ける水」あるいは「生きた水」と呼びました。やがて、「生きた水」という表現は、比喩的な意味で用いられるようになります。
神は、預言者エレミヤの口を通して、神を捨て去る人々を非難して、こう述べました。「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて 無用の水溜めを掘った。水をためることのできない こわれた水溜めを」(エレミヤ2:13)。神こそが、命をお与えになる方であり、魂の渇きを癒すお方であるにもかかわらず、このお方を捨てて、他のものを頼るイスラエルの民を非難した言葉です。
新約聖書に登場するイエス・キリストは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と人びとを招いておられます。ご自分こそが、生きた水をあたえることができるお方であるとおっしゃるのです。そればかりではありません。キリストによって渇きを癒される者は、その人の内から、生きた水が流れ出すとさえ、おっしゃっています。
きょうのみ言葉「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」ヨハネによる福音書7章37節38節