ご機嫌いかがですか。所沢ニューライフ教会の玉井宣行です。
キリスト教会には、必ず十字架が掲げられています。しかし、十字架とは、犯罪人が、罪の刑罰として、死刑に処せられる道具です。なぜ、キリスト教会は、この十字架を掲げているのでしょうか。
それは、わたしたちひとりひとりの、罪の身代わりとして死なれたキリストを思い起こすためです。でも、多くの人は言うでしょう。「わたしの罪とは何ですか。わたしは何も悪いことをしていません。犯罪人として刑罰を受ける必要はありません。」と。
しかし、聖書が語っている人間の罪とは、心の奥底にある、人には隠しておきたい罪を含みます。目には見えなくても、心の中で仲間を罵倒したり、ねたんだり、腹を立てたり、数え上げれば切りがないほどの醜い思いが、心にわき出します。そしてそれが、仲間に対する力や言葉の暴力となって現れるのです。このような人間の思いや行動を、聖書は、罪と呼んでいるのです。
しかし、キリストという神は、わたしたちの心にわき出す罪を、すべて引き受けてくださいました。すべての人々の罪を背負って犯罪人となり、身代わりとして十字架の死を遂げられたのです。十字架を仰いで、キリストに助けを求めて叫ぶならば、わたしたちの心は、本当に軽くされるのです。教会に来て、あなたの心の重荷を降ろしてください。