いかがお過ごしでしょうか。東京練馬の光が丘キリスト教会で牧師をしております、尾崎純と申します。
マタイによる福音書の13章44節で、天の国が、畑に隠されている宝にたとえられています。天の国は、畑仕事をする人の畑の中にあるのです。この人は、畑仕事をしているところで、偶然、宝を見つけました。天の国は、人の思いとは関係なく見出される場合があるのです。
この人は、持ち物を全部売って、この畑を買いました。全てを捨てて、代わりに宝を手に入れたのです。そんなことは自分にはできないと思うかもしれません。しかし、この人の財産は、減ったのでしょうか。今までに持っていたすべてよりも、この宝に値打ちがあると知ったから、喜んですべてを捨てて、畑を買ったのです。
ただ、今日のたとえ話にはおかしなところがあります。畑仕事をしていた人は、人の畑で働いていました。自分の土地を持っていなかったのです。しかし、この人は、畑を買うお金を持っていたというのです。土地を買うお金があるんだったら、最初から自分の土地を買わないでしょうか。
考えてみると、天の国という宝が私たちに与えられるために、キリストは、何をしてくださったでしょうか。命を投げ出してくださったのです。つまり、畑の値段は、神の子の命の値段です。私たちに払えるはずはないのです。ではどうして、キリストはこんな話をしたのでしょうか。キリストは、ご自分の命を、私たちのために、もうすっかり売り払ってくださったからです。