ご機嫌いかがですか?神奈川県茅ケ崎市にあります湘南恩寵教会の牧師、坂井孝宏と申します。
先日、おもしろい相談をいただいたんですけれども、それは、要するにこういうお話です。自分は生活的には十分に満たされているんだけども、でも、自分が幸せだと思えない、っていうことです。比べるわけじゃないんだけれども、どこどこの奥さんは、ご主人にバッグを買ってもらったとかどうとかで、喜んでいるんだけど、自分はそういうものを欲しいとはもう全然思わないんだ、とおっしゃる。そういうことじゃないんだ、と。
言うなれば、その方は、物質的な潤いっていうものは、もう十分に味わってらっしゃる。でも、それでは満ち足りない、精神的な、いやさらに言えば、霊的な「渇き」というものを持っておられるわけです。それはもしかすると、皆さんの中にもある「渇き」ではないでしょうか。
現代の日本人の生活っていうのは、とても裕福で、聖書に出て来るような古代人の生活と比べたら、もう天国のようなもんです。でも悲しいかな、それで古代人より幸せかと言えば、そうでもなさそうなんですね。
魂の問題ってのは、昔も今も大して変わりありません。私たちが本当に教えて欲しいと思っているものも、大して変わりありません。それは例えば、「自分の存在の意味」というようなことです。なぜ生まれて来たのか、そして、なぜ死んでいくのか。そういう問いに答えを得ることができなければ、魂の渇きは癒されないものです。
「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」(詩編42:2-3)。これは、旧約聖書の詩編42編にある祈りの言葉です。皆さんはいかがでしょうか。