いかがお過ごしですか?川越教会牧師、木村恭子です。今週は、神を知るために、イエス・キリストの言葉に注目しています。
ユダヤ人にとってぶどうはとても身近な果物です。そのまま食べたり、干しぶどうにしたり、ぶどう酒に加工したりして用いてきました。イエスはご自分をぶどうの木にたとえて、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(ヨハネ15:1)と言われます。
「まことのぶどうの木」というからには、そうでないぶどうの木もあるのです。ここでは食用に適さない「すっぱいぶどう」や「毒ぶどう」を考えたらいいでしょう。「まことのぶどうの木」であるイエスにつながっていれば、利用価値のあるよい実を結ぶ。しかし「すっぱいぶどう」や「毒ぶどう」は、農夫の手で切り落とされ、焼かれてしまいます。これは、神の裁き、最後の審判を暗示しているのでしょう。
そしてイエスは、こう言われます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)
イエスにつながるとは、イエスの言葉を聞き続けること。イエスの言葉に従うこと。それがイエスの愛の内に留まることであり、父なる神の愛の内に留まることなのです。
農夫である神は、わたしが、あなたが、神の言葉を聞き続けて、イエスにつながって豊かな良い実を結ぶことを願っておられるのです。